5.貧民を救え!

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自民党圧勝政権は改革をするのか?
1.青雲の要路
2.出世運動
3.大願成就
4.独裁者降誕
5.貧民を救え!
6.こんな改革は嫌だ!
7.日本を守れ!
8.ああ、失脚……。
   

 天保十二年(1841)五月、水野忠邦将軍徳川家慶の上意として高らかに改革を宣言した。
 そうとはいえ、改革は家慶の意思ではなく、忠邦自身の意思であった。
 家慶は性格いたって温厚、父・家斉ほど遊び人ではなく、権勢欲も決断力もなく、政治は老中以下に丸投げ、
「そうせい」
 が、口ぐせだったため「そうせい様」と呼ばれていた。
 つまり、思うがままに執政したい忠邦にとってはうってつけの主君だったのである。
 ちなみに天保十二年五月当時の幕閣の人々は、以下の通り。

水野忠邦政権幕閣(1841.5/)

役職名 氏名(官名)  備 考
将 軍 徳川家慶(左大臣) 十二代将軍
大 老 井伊直亮(掃部頭) 近江彦根藩主。
井伊直弼の養父
老中首座 水野忠邦(越前守) 遠江浜松藩主
天保の改革を主導
本丸老中 太田資始(備後守) 遠江掛川藩主
本丸老中 堀田正篤(備中守) 下総佐倉藩主
後の正睦
本丸老中 土井利位(大炊頭) 下総古河藩主
鷹見泉石の主君
本丸老中 真田幸貫(信濃守) 信濃松代藩主
松平定信の子
側用人 堀親シゲ(大和守) 信濃飯田藩主
西丸老中 間部詮勝(下総守) 越前鯖江藩主
西丸老中 井上正春(河内守) 上野館林藩主
若年寄 増山正寧(弾正少弼) 伊勢長島藩主
若年寄 本多助賢(豊後守) 信濃飯山藩主
若年寄 大岡忠固(主膳正) 武蔵岩槻藩主
若年寄 堀田正衡(摂津守) 下野佐野藩主
若年寄 松平忠恵(玄蕃頭) 上野小幡藩主
若年寄 遠藤胤緒(但馬守) 近江三上藩主
若年寄 本庄道貫(伊勢守) 美濃高富藩主
若年寄 内藤頼寧(駿河守) 信濃高遠藩主
若年寄 本多忠徳(越中守) 陸奥泉藩主
※赤字はこの年引退。青字は新任。
※「堀親シゲ」の「シゲ」は漢字入力できず。

 十月、忠邦は諸大名囲米を命令、倹約令(奢侈禁止令)を発令した。
天保の飢饉以来、特に農民の中で貧窮する者が多くなった。日本全国で百姓一揆打ちこわしが頻発し、大塩平八郎のように反乱
(大塩平八郎の乱)を起こす者まで現れた。なぜ、農民が貧窮するようになったか? その分、武士や商人たちが利益をむさぼっているからだ! 皆の者、倹約を心がけよ! 華美な服を着るな! 高級な料理や菓子を食べるな! その他贅沢品の生産や売買は禁止だ! 贅沢するということは、貧民を殺していることと同じことである!」
 忠邦は、元祖経済学者・佐藤信淵の唱える絶対主義的社会主義思想に傾倒していた。忠邦儒学の師・塩谷宕陰
(しおのやとういん)信淵の門弟である。

 十二月、忠邦株仲間解散令を発令、各種株仲間問屋・組合を禁止した。
 真っ先につぶされたのが、商業流通業界に君臨していた利権の巣窟
(そうくつ)十組問屋である。
「つぶせ! 十組問屋を始め、株仲間問屋・組合は物価上昇の元凶である! みんなみんなつぶしてしまえ! そんなものがあるから、庶民は自由に商売できないのだ! 安売りもできないのだ! これらがなくなれば、確実に物価は下がるはずだ! 物価を下げて貧民の生活を楽にするのだっ!」
 が、南町奉行・矢部定謙
(やべさだのり)が反発した。
「それでは商業が廃れてしまいます」
「すたれるのは暴利をむさぼっている豪商だけだ! マジメに商売をしていれば、負けることはない!」
「そんなことはありません! 倹約令もそう、庶民は反発しているんです! 贅沢品というものは何も金持ちだけが買っているわけではありません。ごく普通の庶民も、何か特別な日を決めてささやかな贅沢を楽しんでいるんです。越前公は、庶民のそんなほんのささやかな楽しみまで、奪ってしまうおつもりですかっ!」
 忠邦はプルプル身を震わせて言い返した。
「何がささやかな贅沢だっ。世の中にはささやかな贅沢どころか、今日明日食べるものもない極貧民だっているのだ! そういう極貧民のことを思えば、ほんのささやかな贅沢ですら、絶対にできないはずだ! お前は町奉行といえども、裕福な町人だけしか見ていないからそういうことが平気で言えるのだっ!」
 そこへ目付・鳥居耀蔵が口を出した。
「矢部殿は庶民に非常に甘い裁判をしています。明らかに法令違反の者でも無罪放免にしたり――」
「そうなのか?」
 忠邦に聞かれると、矢部は堂々と答えた。 
「拙者は一般常識でもって裁いております」
 忠邦は激怒した。
「余の法令は一般常識ではないと申すのか!」
「いささかズレがあるかと」
「ズレているのはお前のほうだ! もういい! お前なんかクビだっ! とっとと消え失せろっ!」

 こうして、矢部定謙は南町奉行を罷免された。
 しかも矢部は伊勢桑名
(くわな。三重県桑名市)藩に預けられ、矢部家は改易、鳥居耀蔵が後任の南町奉行を奪い取ったのである。
 矢部は憤慨した。
「クソ! これはすべて鳥居の謀略だったのだ!」
 矢部は抗議の絶食をした。
「極貧民の気持ちを身を持って体験すればいいんだろーがっ!」
 翌年七月、矢部は食を断って餓死した。享年は墓碑によると五十四。

 容赦ない忠邦の首切りに恐怖したのは、もう一人の北町奉行・遠山景元(とおやまかげもと。金四郎・左衛門尉)
「わしも株仲間解散令には反対だが、口に出すと辞めさせられるので黙っていよう」
 で、こっそり隠れて庶民びいきの判決を下していたので人気者になり、後に「遠山の金さん」として有名になるのであろう
(芝居小屋の存続に尽力し、演劇関係者からヒーローに仕立て上げられたという)

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