7.日本を守れ! | ||||||||||||||
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水野忠邦には内政のほかにもやることがあった。
それは、外国の脅威にいかに対処するかであった。
寛政四年(1792)、ロシアのラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を送還ついでに通商を求めてきて以来、日本近海にドロンドロンと外国船が出没するようになった。
主なものを挙げれば、右の通りである。
▽ 江戸後期日本近海出没主要外国船 ▽ | ||
出没年 | 出没者・船(国) | 出没地(出没理由) |
寛政4年(1792) | ラクスマン(露) | 根室(漂流民送還。通商要求) |
寛政8年(1796) | プロートン(英) | 絵鞆=室蘭(海図作成) |
享和3年(1803) | (米) ベンガル号(英) |
長崎(通商要求) 長崎(通商要求) |
文化1年(1804) | レザノフ(露) | 長崎(漂流民送還。通商要求) |
文化3年(1806) | (露) | 樺太(会所襲撃・番人拉致) |
文化4年(1807) | (米) (露) (露) (露) |
長崎(薪水要求) 択捉(通商要求。会所襲撃) 樺太(会所襲撃) 利尻(通商要求。船舶襲撃) |
文化5年(1808) | フェートン号(英) | 長崎(薪水要求。蘭船拿捕) ⇒フェートン号事件 |
文化8年(1811) | ゴロウニン(露) | 国後(択捉・国後島測量) ⇒ゴロウニン逮捕 |
文化9年(1812) | (露) | 国後(ゴロウニン釈放交渉) |
文化10年(1813) | リコルド(露) ワルデナール(英) |
国後(ゴロウニン釈放交渉) 長崎(オランダ商館乗取未遂) |
文化11年(1814) | シャーロット号(英) | 長崎(通商要求) |
文化13年(1816) | (英) | 琉球(通商要求) |
文化14年(1817) | (英) | 浦賀(通商要求) |
文政1年(1818) | ゴルドン(英) | 浦賀(通商要求) |
文政5年(1822) | サラセン号(英) | 浦賀(薪水要求) |
文政7年(1824) | (英) (英) |
常陸大津浜(捕鯨。薪水要求) 宝島(捕鯨。野牛略奪) |
天保2年(1830) | (豪) | 厚岸(捕鯨) |
天保3年(1832) | (英) | 琉球(漂着) |
天保7年(1836) | (露) | 択捉(漂流民送還。通商要求) |
天保8年(1837) | モリソン号(米) | 浦賀(漂流民送還。通商要求) ⇒モリソン号事件 |
「外国に対するには、外国のことをもっとよく知らなければならない」
そこで忠邦は、先の「水野三羽烏」と並んで、伊豆韮山(にらやま。静岡県伊豆の国市)代官・江川英竜、小普請奉行(こぶしんぶぎょう。建設相)川路聖謨(かわじとしあきら)、勘定吟味役羽倉外記(はぐらげき。用九・簡堂)、三人そろって「幕府三兄弟」という外国通を重用したのである。
天保八年(1837)六月、アメリカ船(当初はイギリス船と思われていた)モリソン号が漂流民を送還するため浦賀へ来航した。
が、浦賀奉行・太田資統(おおたすけのり)は、これを砲撃して追い返した(モリソン号事件)。
「外国船は有無を言わさず打ち払え!」
という異国船打払令が文政八年(1825)に発令されていたためである。
これに反発したのは、幕府三兄弟も属する尚歯会のメンバーである。
「何でもかんでも打ち払うのはおかしい!」
「外国を怒らせるべきではない!
欧米列強の力をなめてはいけない!」
「戦争になってみろ! 江戸湾(東京湾)を封鎖されたら日本はおしまいだ!」
「イギリスは伊豆諸島や無人島(小笠原諸島)をねらっている! 早急に対処すべし!」
三河田原(たはら。愛知県田原市)藩家老・渡辺崋山(は『慎機論』で、蘭医・高野長英は『戊戌夢物語』で、それぞれ幕府の海防政策を批判した。
オランダ商館館長グランドソン(グランディソン)も忠邦に忠告した。
「モリソン号はケンカを吹っかけに来たわけではありません。漂流民を届け、通商を求めに来たのです。その船に対して砲撃することは、イギリスに戦争の口実を与えてしまうことになります。イギリスを怒らせてはいけません!
イギリス軍は世界最強なんですよ!」
「世界最強は清ではないのか?」
「いいえ。清などイギリスの足元にも及びません。オランダやロシアですらかなわないのです。まもなくイギリスは清と戦争を始めます。そうすれば、すべてが分かることでしょう」
忠邦は動いた。
天保九年(1838)十二月、江戸湾の防御策を考えるため、鳥居耀蔵と江川英竜に視察に向かわせたのである。
が、保守派「三羽烏」の鳥居と開明派「三兄弟」の江川の気が合うはずがない。浦賀海岸の測量方法でさっそく対立した。
「測量には、測量技術の優れた蘭学者を雇おう」
「蘭学者を使えば、オランダに情報が漏れる恐れがある」
「オランダは味方だ!」
「イギリスもオランダも同じ欧州人だ! 信用できるか!」
これが理由で鳥居は「蛮社の獄」を引き起こし、渡辺や高野を逮捕するのであるが、この事件の詳細は、またいつか「味」を改めて紹介したい。
天保十一年(1840)、ついにイギリスは清と戦争を開始した。
いわゆる「アヘン戦争」である。
天保十二年(1841)一月、イギリス軍は香港(ホンコン)を占領、天保十三年(1842)八月に清は降伏し、南京(ナンキン)条約を調印、香港を割譲し、強制的に開国させられた。
「イギリスの次なる標的は日本だ!」
忠邦は、天保十二年(1841)十二月に再度鳥居と江川を江戸湾に派遣、天保十三年(1842)七月に異国船打払令を緩和し、天保の薪水給与令を発令、その一方で九月に諸大名に軍備増強を命じ、十二月には武蔵羽田(はねだ。東京都大田区)奉行(初代奉行・田中一郎右衛門)を設置、下田奉行(奉行・小笠原長毅)を再置した。
また、以前からのオランダ風説書とは別に別段風説書を始め、より詳細な対外情報を得ようとした。
さらに江川の進言で西洋式砲術の祖・高島秋帆に砲術を教授させたが、これは鳥居の反発にあってすぐに退けられた。ただしオランダには、新式の大砲や銃などを注文させている。
よく知られている人返しの法や印旛沼干拓も、忠邦の海防政策の一環である。
人返しの法とは、都市の人口を減らし、農村の人口を増やすことによって農業を活性させる目的もあったが、江戸の人口を減らすことによって、万が一江戸湾を封鎖されたときに長期間持ちこたえられるようにしたわけである。
また、印旛沼干拓も、江戸湾を封鎖されたときのための食糧・物資の補給路(銚子→利根川→印旛沼→堀割→検見川→品川)を確保するためであった。
工事は天保十四年六月に開始、普請役格に就いた名うての農政家・二宮尊徳が計画を練り、町奉行に勘定奉行を兼ねた鳥居耀蔵らが現場を監督、開発費は後藤光亨が工面するはずであったが、後藤が、
「カネがない〜」
と、見え透いたウソをついたため、工事を担当させた五大名、つまり、因幡鳥取(とっとり。鳥取県鳥取市)藩主・池田慶行(いけだよしゆき。松平慶行)、出羽鶴岡(つるおか。山形県鶴岡市)藩主・酒井忠器(さかいただかた)、駿河沼津(ぬまづ。静岡県沼津市)藩主・水野忠義(ただよし。忠成の子)、筑前秋月(あきづき。福岡県甘木市)藩主・黒田長元(くろだながもと)、上総貝淵かいぶち。千葉県木更津市)藩主・林忠旭(ただあきら。忠英の子)にカネも出させることにした。
「何で我々が自腹でこんなことをせねばならんのだ」
五大名は大いに不満であった。
で、こんなことを願うようになっていた。
(越前なんて、失脚すればいいのに)
天保十四年(1843)五月、三羽烏の一人・渋川敬直が、忠邦にこんな忠告をしている。
「一見、幕臣や大名たちは改革に協力しているように見えますが、内心では越前公の失脚を望んでいる者が多くなっております。どうか御注意を」