8.ああ、失脚……。 | ||||||||||||||
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水野忠邦はあることに気が付いた。
「海防を強化しようにも、多藩に分かれていては指揮系統がバラバラだ。何とかできないものか」
その時、納戸頭(なんどがしら。将軍財布係)兼勘定吟味役・羽倉外記が助言した。
「実はそのことについて、禁断の策があるのですが……」
「なんだ?」
羽倉は耳打ちした。
忠邦はうなずいた。
「よし、それでいこう」
天保十四年(1843)六月、忠邦は諸大名にこんな通知をした。
「大都市の周辺や海防の要衝は、幕府が没収し、直接支配することにする」
いわゆる「上知令」である。
忠邦は、手始めに越後長岡(ながおか。新潟県長岡市)藩から日本海側の要衝・新潟港(にいがたこう。新潟市)を上知(あげち。没収)、これを幕府領とし、新潟奉行(初代奉行・川村修就)を設置した。
さらに、江戸・大坂十里四方に領地を持つ大名は、幕府に差し出すよう命じたのである(正式発令は九月。大坂は五里四方という説もある)。
大都市周辺に領地を持つ該当大名たちは困った。
「どういうことだ?」
「つまり、強制的に国替えさせられるということだ。それも都市から離れた辺鄙(へんぴ)なところに」
「嫌だー!
そんなことになったら、もう都会で遊べなくなるー!」
「また越前公は無茶苦茶なことを〜」
農民たちも困った。
「おい。殿様が替わるそうだ。次の殿様は暴君じゃないだろうな?」
「年貢は今より確実に高くなるぞ。引越代その他もろもろは増税でまかなうつもりだ」
「嫌だー!
そんなことになったら、もう遊べなくなるー!」
「また越前公は無茶苦茶なことを〜」
町人たちも困った。
「おい。殿様が遠くへ行ってしまったら、今まで貸していた金はどうなるんだ?」
「もちろんチャラだぜ」
「嫌だー!
そんなことになったら、もう遊べなくなるー!」
「また越前公は無茶苦茶なことを〜」
危機を感じた農民たちは上知令反対のデモを決行、町人たちは大名のもとに押しかけた。
「殿様。引っ越す前に今まで貸したお金、耳をそろえて返してください!」
「まさか、高飛びするんじゃないでしょうねぇ!」
「それだけは御勘弁をぉー!」
老中・土井利位(どいとしつら)の役所にも庶民は殺到した。
土井は下総古河(こが。茨城県古河市)七万五千石の藩主であるが、摂津と播磨に二万四千石の飛地があった。うち摂津の一万八千石余りが上知の対象となったわけである。
「殿様には京都所司代・大坂城代に在任中に大金を工面してあげました! 引っ越す前にそれを全部返してください!」
「返してくれなければ生活できませんて!
税も払えませんて!」
「それが無理なら、国替えに断固反対してくだされ!」
「そーだ! 国替え反対ーっ!上知令反対ーっ!」
土井は困った。
「ああ、返すカネはないし、上知令に反対する勇気もない。反対すれば間違いなくクビだ。余は太田や矢部の二の舞にはなりたくはない!」
「いいえ。今回は反対しても大丈夫でしょう。大目付・遠山景元、勘定奉行・跡部良弼(あとべよしただ)、同・土岐頼旨(ときよりむね)、同・井上秀栄(いのうえひでなが)、町奉行・阿部正蔵(あべしょうぞう)、上知令に反対している幕臣は要職だけで五人もいますからね。これらを全部罷免すれば、政権が成り立たなくなります」
助言したのは、蘭学通の家老・鷹見泉石(たかみせんせき)。
そう。渡辺崋山の代表作・国宝「鷹見泉石像」のモデルである。
泉石は続けた。
「お味方を増やすことです。そうすれば、越前公も上知令を断念することでしょう」
「みんなで反対すれば怖くないってか」
土井は同僚・堀田正篤を誘った。
後に正睦と改名し、阿部正弘の後を受けて開国に尽力するあの老中である。
「おお、『雪印』の土井殿」
蘭学に通じていた土井は、かつて家老鷹見と雪の結晶の研究本『雪華図説(せっかずせつ)』を刊行、江戸の街に雪印柄の浴衣(ゆかた)を流行させたことがあった。
土井は切り出した。
「実は、かくかくしかじかなのだが――」
話を聞いた堀田は同調した。
「実は今まで内緒にしていたが、私も上知令には反対なのだ。土井殿が反対に回るのであれば、私もそうしよう」
「ありがたい!」
土井・堀田らの説得工作もあって、見る見る反対派は膨れ上がっていた。
喜んだのが、忠邦が唯一手が出せなかった大奥のドン・姉小路局である。
「そーれ! この機に乗じて越前をつぶしておしまい!」
姉小路局は御三家の一角・紀伊家に働きかけた。
時の紀伊家当主・徳川斉順(なりゆき)は故家斉の子であり、将軍家慶の弟である。
姉小路局は斉順と共に家慶に迫った。
「越前は改革改革といいながら、どんどん世の中を悪くしています。そして今度は上知令という暴挙を行おうとしています! もう我慢できません! 越前を辞めさせてください!」
「そうですよ。越前が幕閣に君臨している限り、これからも果てしなく悪政は続くことでしょう。悪政を止めるには越前の罷免!
それしかありません!」
家慶は困った。こればかりは「そうせい」とはすぐに言えなかった。
彼は逃げた。
「待て待て。考えておく」
「姉小路と紀州公が上様に告げ口しました」
鳥居から聞かされた忠邦は危機を感じた。
「余は何も悪いことをしていないぞ!」
忠邦は御側御用取次・新見正路(しんみまさみち。加賀守)に願い出た。
「上様に会わせていただきたい!」
が、新見は拒否した。
「ダメです」
実は新見もいつの間にか反対派に回っていたのである。
「どうしてダメなんだ!」
「会いたくない、とのことです」
「クソッタレ!」
忠邦は引き下がるしかなかった。イライラ落ち着かなくなってきた。
「姉小路はいったい何を告げ口したのだ!?」
鳥居が勧めた。
「反対派の勢いは日増しに増していきます。これを食い止めるには、反対派全員を罷免するしかないでしょう」
「反対派とは、いったい誰と誰と誰なんだ!?」
「大目付の遠山、勘定奉行の跡部・土岐・井上、老中の堀田・土井、小普請奉行の川路、御側御用取次の新見、代官の江川、それから――」
「まだいるのか!」
「さあ! 今すぐこれらを全員辞めさせましょう!」
「辞めさせられるわけないではないかっ!」
「そうですか。それなら、終わりですね……」
鳥居は悲しそうな顔をした。
その日以来、鳥居は姿を見せなくなった。
忠邦は不安になった。
「鳥居はどこへいったんだ?」
羽倉が答えた。
「裏切りました……」
「な、何!?」
「鳥居は反対派に寝返りました。鳥居だけではありません。渋川も後藤もです。鳥居は機密文書をすべて持ち出して、土井に提供したそうです!」
「な、な、何てことだ!」
忠邦は動転した。
「うぬぬ! なぜみんな分かってくれぬ! 余は貧民たちを救わなければならないのだ! 迫り来る外国から日本を守らなければならないのだ! この国を守ることができる者は、余以外に存在しないのだーっ!」
とにかく家慶に会いに行った。絶対に会わねばならないと思った。
「将軍に会わせろ!」
「ダメです。上様は休息中です!」
「かまわん! どけっ! 大事な用があるのだ! 上様! 私の話を聞いてくだされっ!」
忠邦は新見を突き飛ばすと、かまわず家慶の休息所に上がりこんだ。
「上様! なにとぞ!
私の話を聞いてくだされ!」
家慶は本当に休息していた。
「どうか、話を聞いて……」
家慶は、いわゆるスッポンポンであった。
彼は堂々と立ち上がって聞いた。
「この格好でか?」
「あ、いや、その、あの……」
「クビだ」
「え……」
家慶の顔は紅潮していた。
それが羞恥(しゅうち)のためではなく、激怒のためだということは、のた打ち回る額の青筋が物語っていた。その顔もいつもの温和な「そうせい様」ではなく、地獄の閻魔(えんま)大王のようであった。
「出て行け! さっさと立ち去れ! 老中は罷免だ! 罷免にしてくれるわーっ!」
閏九月、上知令は撤回され、忠邦は老中を罷免された。
かくして天保の改革はわずか二年ちょっとで終わりを遂げたのである。
「越前が罷免されたんだってよ」
知らせを聞いた庶民たちは大喜びした。
「やったぞー!」
「もう贅沢しても逮捕されないんだー!」
「うまいもんも食えるぞ! 歌舞伎も寄席も観にいけるぞ!」
庶民たちは、本日限りの忠邦公邸に押しかけた。
「出て来い、越前!」
「よくも今まで散々オレたちを苦しめてくれたな!」
「ザマ見やがれ!
悪人は成敗されるんだー!」
庶民たちは鬨(とき)の声をあげながら公邸を取り囲むと、これでもかこれでもかと石や砂などを雨あられと投げ込んだ。
まるでかの国で起こった反日デモのような状態である。
あるいは忠邦人形を作って壊したり、水野家の家紋を燃やしたりした庶民もいたかもしれない。
落首も続々と詠まれた。
たとえばこんなものである。
水引いて十里四方は元の土
その後、忠邦はどういうわけか再び老中に就くが、もはやかつての勢いはなく、一年足らずで引退(「半端味」参照)、嘉永四年(1851)二月十日に武蔵渋谷(しぶや。東京都渋谷区)で寂しく世を去った(公表は十六日)。享年五十八。
最後に彼の心情をよく表した漢詩を紹介しておく。
欲救蒼生天下飢 世人報道我軽肥
傍観当局誰能識 自悔十年相乗行
[2005年9月末日執筆]
[2005年11月修正]
参考文献はコチラ