ホーム>バックナンバー2006>『徒然草』第93段

　牛を売りたい人があった。
　それを買いたい人がいて、翌日、お金を用意して引き取ることにした。
　が、その晩、牛は死んでしまった。
　一日の差で買いたい人は得をし、売りたい人は損をしたというわけだ。

　こんな話をしている人があった。
　そばで聞いていた人が反論した。
「牛を売りたい人は損をしたというが、本当は大きな利益を得ている。生き物というものは、死が近いことを知らないものだ。当然、牛もそれを知らない。人も同じだ。思いのほか牛は死に、売りたい人は生き残った。一日の命というものは、どんな大金よりも重いものだ。一方、牛の値段は鳥の羽より軽いものだ。大金以上のものを得て、鳥の羽以下のものを失った人のことを、まさか損をしたとは言えまーい」
　周りの人々は笑った。
「そんな道理はこの話だけに限ったことではない」
　そばで聞いていた人は、さらに言った。
「だから人は死を憎み、生を愛するのだ。生きている喜びを日々楽しもうではないか！ 愚かな人はこの喜びを忘れ、苦労してほかの楽しみを求めようとする。この至上の宝を忘れ、果てしなく上を目指して決して満足することはない。生きている間に生を楽しまず、死に臨んで死を恐れているようではダメだ。生きていることを楽しまない人は、死を恐れていないからだ。いや、恐れていないのではない。死の近いことを忘れているだけなのだ！ もし本当に死を恐れない境地に至ることができれば、まさに真理を得たといえるであろう！」

[2006年1月末日執筆]
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