2.東北大変

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菅降ろし
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 氷上川継は「反桓勢力」に声を掛けまくった。
「帝はペテン師です。ニセ皇族です。人間、ウソをついてはいけません。みんなでヤツを皇位から引きずり降ろしましょう!」
 反桓勢力とは、左大臣・藤原魚名
(ふじわらのうおな。「藤原北家系図」参照)参議・藤原浜成(はまなり。「藤原京家系図」参照)参議大伴家持(「大伴氏系図」参照)参議・大伴伯麻呂(おじまろ)、右衛士督(うえじのかみ。参議長官)・坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ。田村麻呂の父。「坂上氏系図」参照)、造東大寺長官(ぞうとうだいじちょうかん。造東大寺司長官)・吉備泉(きびのいずみ。真備の子。「下道氏系図」参照)らである(官職は「古代官制」参照)
 が、不破内親王の子である川継の誘いに乗る者はいなかった。
「川継を操っているのは陰謀常習者の不破内親王だ」
「不破内親王の夫はニセ皇帝・塩焼王で、姉は廃后・井上内親王――」

自身も夫も姉も反逆者なんて家系の女の言うことなんて信じられないし、関わらないほうがいい」
「そういえば不破内親王の義弟
(道祖王)も廃太子にされてますよね(「意地味」参照)
「あぶないあぶない」
 総すかんの中、藤原浜成だけが川継の話を聞いてくれた。
「どうした?婿
(むこ)殿」
 浜成は川継の妻・藤原法壱
(ほういつ)の父である。
「帝は道鏡の子なんですよ。かくかくしかじかしーかじか――」
 浜成はうなずいた。
「うすうす先帝についてはおかしいと思っていた。先帝は即位前、白壁王と名乗り、公卿として大納言まで昇ったというが、その間、わしは一度も姿を見かけたことはない。しかも彼の官歴を調べてみると、おかしなことに兼官が一つもないのだ。この無能といわれている私ですら、武蔵・刑部卿
(ぎょうぶきょう。刑部省長官)・弾正尹(だんじょういん。弾正台長官)・大宰帥(だざいのそち。大宰府長官)など、多くの兼官を歴任しているにもかかわらずだ」
「でしょう?」
「まあ、道鏡と先帝が同一人物だったとすれば、その疑問も消えるというわけだ。婿殿の言うことが事実であるとすれば、とんでもないことだ。もっと詳しく調べてみる価値はある。大丈夫だ。わしは婿殿の味方だ」
「ありがとうございます!」

 しばらくして、なぜか浜成は桓武天皇に呼び出された。
「藤原浜成。お前はとろくて仕事が間に合わないから、しばらく地方に行って勉強して来い」
「はい〜?」
 別に浜成は参議を解任されたわけではなかった。
 兼官の大宰帥を大宰員外帥に降格し、大宰府
(福岡県太宰府市)に赴任しろというのである。
(ようするに左遷ってことか……)
 浜成は不満であったが、行くしかなかった。
 実は浜成は桓武天皇即位前、桓武の弟の稗田親王
(ひえだしんのう)を皇位に推そうとしたこともあったため、前からにらまれていたのであろう。
「分っかりました。勉強してきまーす」
 浜成はおとなしく大宰府へ下っていった。

 一方、大伴家持は反桓勢力の最右翼であったが、川継も好きではなかったため、誘いには乗らなかった。
「不破内親王の言うことは信じられないし、川継は帝にふさわしくない。やはり、一番帝にふさわしいのは文武に優れた親王禅師
(しんのうぜんじ。早良親王)であろう。いずれにしても今は『桓降ろし』などやっている場合ではない。東北がこんな大変な時期に」

 天応元年(781)当時、東北地方は反乱の渦中にあった。
 宝亀十一年(780)に始まった伊治呰麻呂の乱が陸奥出羽両国に拡大し、大反乱になっていたのである。
 呰麻呂征夷大将軍・早良親王によって討ち取られたが
(弊サイトではそういうことにしている。「怨霊味」参照)、依然、出羽は治まらず、陸奥胆沢(いさわ。岩手県奥州市)にも大酋長(だいしゅうちょう)・アテルイが巨大な力を有していた。
「怪物アテルイを何とかしないことにはこの国に安穏はない。それなのに何が『桓降ろし』だ!そんな余力がある者は、東北へ行って戦って来やがれ!」
 まもなく、家持陸奥按察使
(あぜち)・鎮守将軍(鎮守府長官)として東北へ戦いに行くことになる。
 そして、その間に行われたのが、例の長岡遷都であった
(「怨念味」参照)

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