117.菅降味 基礎用語集

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アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

宇佐八幡神託事件(うさはちまんしんたくじけん)=宇佐八幡宮神託事件=道鏡皇位事件(どうきょうこういじけん)
 769称徳(しょうとく)天皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)が皇位をねらった事件。大宰主神・中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を皇位につけることを上奏するが、宇佐に赴いた和気清麻呂が偽託だと上奏して野望を阻止、称徳天皇は清麻呂とその姉・和気広虫(ひろむし)を島流しにした。
女帝味

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

衛士(えじ)
 古代の宮都警備員。諸国の軍団の兵士から選ばれて上京し、左・右衛士府(さ・うえじふ)や衛門府(えもんふ)に配され、宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持を担当した。律令には任期を一年と定めてあるが、実際は多年にわたった。792諸国の軍団が廃された後も公民から徴収された。

蝦夷(えぞ・えみし)
 古代、主に東日本に住んでいた人々。朝廷の征伐を受け、次第に北方に追いやられた。アイヌかどうかについては不明。

恵美押勝(えみのおしかつ)の乱=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱
 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。恵美押勝)が孝謙(こうけん)上皇に対して起こした反乱。764太師(太政大臣)・藤原仲麻呂は、孝謙上皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)を除こうとして反乱を起こすが、吉備真備(きびのまきび)の采配(さいはい)や藤原式家(しきけ)の人々の活躍などにより近江にて敗死。これにより、仲麻呂が擁していた淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇は称徳天皇として再び即位、道鏡が専横した。
日朝味6

大伴家持(おおとものやかもち)
 (718?-785)公卿。歌人。中納言。三十六歌仙の一。大伴旅人(たびと)の子。内舎人(うどねり)として聖武(しょうむ)天皇に仕え、越中守(えっちゅうのかみ)・薩摩守(さつまのかみ)・衛門督(えもんのかみ)等を経て、780参議に就任、782氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変に関係して解任されるが、783中納言(ちゅうなごん)に昇り、『万葉集』を編集したと思われるが、785藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わった罪で死後に処罰された。菅降味 怨念味1

桓武天皇(かんむてんのう)=柏原帝(かしわばらてい)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味 菅降味 怨霊味 ヤミ味

吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。下道圀勝(くにかつ)の子。717-735唐に留学、玄ム(げんぼう)とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となり、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を担当するが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の圧力で一時左遷、怡土城を築城するが、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師に抜擢されて活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室智努(ふんやのちぬ。浄三)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。
辞任味 意地味

京職(きょうしき)=左京職(さきょうしき)+右京職(うきょうしき)
 律令制における都庁・司法警察官庁。長官は左京大夫(さきょうのだいぶ)と右京大夫(うきょうのだいぶ)。左京を左京職が、右京を右京職が統治した。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。古代の公卿は現在でいう閣僚に相当。

小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
 (1942-) 政治家。首相(在職2001-)。福田赳夫(ふくだたけお)の秘書を経て1972衆院議員に当選、厚相・郵政相などを経て、2001自民党総裁として首相に就任、「聖域なき構造改革」を掲げ、派閥解消に尽力、2002北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん)を発表し、2005道路公団を民営化、2007の郵政民営化を決定した。不況味

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

光仁天皇(こうにんてんのう)←白壁王(しらかべおう)
 (709-781) 伝四十九代天皇(在位749-758,764-770)。施基(しき)親王王子。天智(てんじ・てんち)天皇の孫。聖武(しょうむ)天皇皇女・井上(いのうえ・いのえ)内親王と結婚し、大納言に昇進、770称徳(しょうとく)天皇没後に藤原永手(ふじわらのながて)・藤原百川(ももかわ)らに推されて即位し、道鏡(どうきょう)を追放、行政改革を行った。
ヤミ味

五衛府(ごえふ)=衛府=衛門府(えもんふ)+左衛士府(さえじふ)+右衛士府(うえじふ)+左兵衛府(さひょうえふ)+右兵衛府(うひょうえふ)
 古代の宮都警備隊の総称。それぞれ長官(かみ)は督、次官(すけ)は佐、判官(じょう)は大尉・少尉、主典(さかん)は大志・少志。宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持などを担当した。811に左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の六衛府となる。

五刑(ごけい)=五罪(ござい)
 律で定められた五つの刑。以下の五種。

刑名

内容 詳細
笞(ち) 細い棒での尻たたき 10・20・30・40・50回の五種
杖(じょう) 太い棒での尻たたき 60・70・80・90・100回の五種
徒(ず) 懲役 1・1.5・2・2.5・3年の五種
流(る) 島流し 近国・中国・遠国への三種
死(し) 死刑 絞首・斬首の二種

伊治呰麻呂(これはりのあざまろ・これはるのあざまろ・いじのあざまろ)
 (?-?)官人・蝦夷の首長。778戦功によって外従五位下になり、陸奥国伊治(上治)郡大領となるが、780反乱を起こし、参議兼陸奥按察使・紀広純(きのひろずみ)と牡鹿郡大領・道島大楯(みちしまのおおたて)を殺害、多賀城を炎上させた(伊治呰麻呂の乱)。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。八省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、寮は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。

自由民主党(じゆうみんしゅとう)=自民党(じみんとう)
 (1955- )自由党と民主党の保守合同によって成立した政党。初代総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)。結党以来一貫して政権を保持したが、1993に分裂、初めて野党に転落するが、1994再び政権党に返り咲き、2009再び野党に転落した。

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)上皇←孝謙天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 第四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。母は藤原光明子(こうみょうし。光明皇后)。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、不和になって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ。藤原仲麻呂)の乱を鎮圧し、天皇に重祚(ちょうそ)、西大寺を建立し、百万塔(ひゃくまんとう)を製作、寵愛(ちょうあい)する道鏡(どうきょう)を大臣禅師、765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)、766法王(ほうおう)とし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、皇嗣を定めずに没した。奈良味
女帝味

聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇=聖武太上天皇(だじょうてんのう・だいじょうてんのう)
 (701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
暴発味辞任味 

壬申(じんしん)の乱
 皇位継承をめぐる飛鳥時代最大の内乱。671天智(てんち・てんじ)天皇の死後、子の大友(おおとも)皇子(弘文天皇)と弟の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)が対立、672大海人皇子は吉野(よしの)で挙兵し、伊勢へ下向、村国男依(むらくにのおより)に美濃・尾張国司を懐柔させ、不破(ふわ)・鈴鹿関(すずかのせき)を封鎖、大伴吹負(おおとものふけい)に飛鳥古京を占拠させた。大友皇子は大和・伊賀で攻勢に出るが反撃され、近江の瀬田(せた)で完敗、大津宮(おおつのみや)で自殺した。乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)へ遷都、673天武天皇として即位した。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は世襲となり、幕府を開いた。将軍味

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

大宰府(だざいふ)=遠の朝廷(とおのみかど)
 九州に置かれた古代の地方特別官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった朝廷の出張所。長官は大宰師(だざいのそち)。663白村江(はくそんこう)の戦後に設置され、九世紀以降は貿易も行って活性化したが、1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。
暴発味

弾正台(だんじょうだい)
 律令制における特別検察機関。長官は弾正尹(だんじょういん)。二官八省から独立し、京内を中心とした各役所の非違を糾弾した役所だが、九世紀初めの検非違使の設置で職務を奪われた。

鎮守府(ちんじゅふ)
 律令制で蝦夷平定のため陸奥に置かれた軍政府。長官は鎮守将軍。奈良時代に多賀城(たがじょう)に置かれ、802胆沢(いさわ)城に、さらに平泉(ひらいずみ)に移されるが、奥州藤原氏滅亡によって廃絶した。

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)←中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし(乙巳の変)、叔父の孝徳(こうとく)天皇を擁立し、皇太子として大化の改新を断行、654孝徳天皇没後は母を立て、皇太子のまま執政、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。工作味 ウソ味 日朝味5

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。もとはヤマト政権の大王。七世紀から天皇に移行。初代天皇(大王)は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

天武天皇(てんむてんのう)←大海人皇子(おおあまのおうじ)
 (631?-686)第四十代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、684八色(やくさ)の姓(かばね)を制定し、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を編集させた。

道鏡(どうきょう)弓削(ゆげ)道鏡
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。義淵(ぎえん)・良弁(ろうべん)の弟子になり、孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。奈良味女帝味

奈良時代(ならじだい)
 (710-784) 平城京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。710元明(げんめい)天皇の平城京遷都に始まり、律令国家の最盛期にあたり、天平文化が栄えた。784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都で幕を閉じたが、784-794長岡京の時代も含む場合もある。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

八省(はっしょう)
 律令制において太政官に直属する八つの官庁の総称。⇒古代官制

藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
 (737-785) 公卿。中納言。式家・宇合(うまかい)の孫。清成(きよなり)の子。桓武天皇の側近として活躍し、784造長岡宮使として長岡京造営を主導、785造営工事を指揮中に射殺された(藤原種継暗殺事件)。この事件で早良親王らが皇太子(皇太弟)を廃され、大伴家持(おおとものやかもち。当時すでに死亡)らが処罰された。菅降味 怨念味

藤原百川(ふじわらのももかわ)←藤原雄田麻呂(おだまろ)
 (732-779) 公卿。参議。式家・宇合(うまかい)の子。母は久米若女(くめのわかめ)。広嗣(ひろつぐ)・良継(よしつぐ)らの弟。種継(たねつぐ)の叔父。称徳(しょうとく)天皇・道鏡(どうきょう)政権で台頭し、天皇没後に藤原永手(ながて)らとともに光仁(こうにん)天皇を擁立、皇后・井上内親王と皇太子・他戸(おさべ)親王を退け、山部親王(やまべしんのう。後の桓武天皇)の立太子に尽力した。奈良味ヤミ味 

法王≦法皇(ほうおう)
 766称徳(しょうとく)天皇が道鏡(どうきょう)に授けた称号(法王)または上皇が出家した際の称(法皇・法王)。前者は770称徳天皇没後、道鏡の失脚により廃絶。後者の最初は899出家した宇多法皇。

民主党(みんしゅとう)
 @(1947-1950) 1947日本進歩党と日本自由党の一部、国民協同党の一部などで結成。総裁は芦田均(あしだひとし)。1949分裂し、1950連立派が民主自由党と合同して自由党を、野党派が国民協同党と合同して国民民主党を結成した。
 A(1996-) 1996鳩山由紀夫(はとやまゆきお)と菅直人(かんなおと)が結成し、1997新進党分裂で野党第一党となり、2003自由党を吸収、2009自民党に代わって政権を担った。

山上憶良(やまのうえのおくら)
 (660-733?) 官人・万葉歌人。遣唐使として唐に渡った後、伯耆守や筑前守となり、大伴旅人(おおとものたびと)らと親交、「貧窮問答歌」を作り、『類聚歌林(るいじゅうかりん)』を編集したとみられる。

和気清麻呂(わけのきよまろ)
 (733-799) 官人・公卿。姉・和気広虫(ひろむし。法均尼)とともに孝謙(こうけん。称徳)天皇に仕え、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍、769道鏡皇位事件(宇佐八幡宮神託事件)で法王・道鏡(どうきょう)の即位を阻止するが、大隅へ流刑にされ、771赦免、摂津大夫(せっつのだいぶ)・民部大輔(みんぶのたいふ)・中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)を兼ね、長岡京(ながおかきょう)造営に尽力、桓武(かんむ)天皇に平安京遷都を進言し、その造宮にも携わった。
女帝味

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