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はじめてお手紙差し上げます。
孫の平子(ひらこ・へいし。「南家系図」参照)です。
突然ですが、私、決心しました。
あの方のもとに嫁ぐことにいたしました。
あの方――。
説明はいりませんよね?
おばあさまの初恋のお相手なんですから。
私は長い間、理由がわかりませんでした。
おばあさまが時々、隠れて泣いている理由がわかりませんでした。
「どうして泣いているの?」
私が聞いても、
「ちょっと目にゴミが入ってね」
おばあさまはいつも見え透いたウソをついていましたよね?
でも、あの方に仕えるようになってわかったんです。
だって、あの方も同じように隠れて泣いているんですから。
「陛下。どうして泣いているんですか?」
あの方は理由を隠しませんでした。
「ちょっと、昔の女を思い出してね」
「元カノですか?」
「ああ、初恋の女だ」
「きれいな方だったんでしょうね?」
「もちろんだ」
「別れたんですか?」
「別れさせられた。生木を裂くように。ううっ……」
「その女性が今でも忘れられない……」
「言うな!」
あの方は頭を抱えました。
「わかりません」
私は理解できませんでした。
「何がだ?」
「陛下は皇位に就かれたお方です。天下を手中にしたお方です。すべての臣下や民たちが陛下の御命令を聞くのです。聞かないはずはないのです。そのような万能なお方が自由にできない女性なんて、この世に存在するんでしょうか?」
「朕(ちん)は万能ではない。時をさかのぼることはできない。五十年も前の話だ。当時は藤原仲麻呂の天下で、藤原南家の全盛期だった。対して朕は、壬申の乱で没落した皇統の次男坊にすぎなかった(「天皇家系図」参照)。そのような地位も財力もない朕が、十歳も年上の南家の御曹司と彼女を争ったところで勝てるわけがなかった。朕は周りから猛烈に責め立てられ、彼女をあきらめるしかなかった。すべては彼女の幸せのために、涙をのんで撤退したのだ。あの時は信じていた。朕より南家の御曹司のほうが彼女を幸せにしてあげられると」
「南家の御曹司って、仲麻呂の子の一人ですか?」
「いや、仲麻呂の兄の豊成(とよなり)の子だ」
私はハッとしました。
「それってまさか……」
「そうだ。君のおじいさま、藤原継縄(ふじわらのつぐただ)だよ」
「!」
私の疑問の霧は晴れました。
「では、陛下の初恋の女性って、私のおばあさま……」
「そうだよ。百済王明信(くだらのこしき・くだらのこにきしみょうしん)だよ」
「!!」
あの方はまた頭を抱えました。
小刻みに震えて、嗚咽(おえつ)しているようでした。
「確かに朕は皇位を手に入れた。天下のすべてを手に入れることができた。だが、それが何だというのか?朕はただ、彼女だけが欲しかった!逢えた時も逢えない時も、朕は四六時中彼女ことばかり考えていた!名誉?カネ?そんなほかのものは何もいらない!朕にとっては彼女だけがすべてだった!彼女を失った後の人生なんてクズだ!ただの抜け殻だった!朕は悔しい!悔しくてたまらない!今や朕と継縄の立場は逆転した!願わくば五十年前に戻って彼女を奪い返したい!」
私はあの方の肩をなでて慰めました。
「でも、おばあさまは今、陛下のそばにいるではありませんか。後宮を仕切る尚侍(ないしのかみ)として、毎日会っているではありませんか」
あの方は顔を上げて駄々っ子のように怒りました。
「違うのだ!何も分かっていない!朕は彼女を部下ではなく、伴侶にしたかったのだ!今の彼女とどんなに逢ったところで、彼女が人妻という刻印を消し去ることはできない!それに、朕が恋焦がれていたのは、あのような老婆ではない!五十年前の、若くて美しくてかわいい娘だっ!」
あの方は私の手を取りました。瞳に星を入れて語りかけてきました。
「彼女は美しかった……。そう。ちょうど今の君のような、若くて美しくてかわいい娘だった……」
「え?」
「君を見るといつも思い出す。まるで五十年前に戻ったような錯覚をする。君はあの時の明信とそっくりだ。顔も、背丈も、この手のぬくもりも」
「……」
「男というものは、どんなに年を取っても若い娘が好きなんだ(※個人の感想です)。彼女を失った衝撃で、朕の時間は五十年前に止まってしまったのだ……」
「……」
「明信……。僕だ。山部王だよ」
私は手を放しました。
「私はおばあさまではありません」
「そんなはずはない!君はまがうことなきあの時の明信だ!」
「違いますって」
「そんな殺生なことを言わずに、僕の明信になってくれよ!」
「なれるわけないじゃないですか」
「いや、君ならなれる!彼女にそっくりな君だけしかなれない!嫌なら今だけでいい!今の一瞬だけ、僕の妄想の餌食になってくれ!」
「じゃあ、ほんの一瞬だけですよ」
「そうだ!ほんの一瞬だけでいい!朕は年だ!もうすぐ死ぬ!朕が死ぬまでの、ほんのわずかな期間だけでいい!このまま死んだら朕は、この世で何もなすことができなかった、つまらないクソジジイになってしまう!」
「そんなことありません!陛下ほど多くの業績を残した為政者は後にも先にもありません!陛下は偉大な帝王です!御自分を卑下するのはやめてください!」
「違うのだ!さっき言ったではないか!業績?帝王?そのようなものはみんな無意味だ!僕にとって唯一意味があるものは君だけなんだ!僕は君を愛している!僕と結婚してほしい!老い先短い哀れな老人の最後の頼みを聞いてほしい!僕は、五十年前の非力な僕ではない!今の僕なら、この国のすべてでもって全力で君を幸せにすることができる!頼む!五十年前、僕は悔しかったんだ!悔しくて悔しくてたまらなかったんだ!どうか、五十年前に失った僕の人生で唯一の願いをかなえてほしい!頼むっ!」
あの方は私に懇願しました。
天下の天皇陛下が、地に額をすり付けて泣きすがりました。
いつの間にか私も泣いていました。
陛下の肩をさすりながら、大粒の涙を流していました。
おばあさま。
読んでますか?
いいですよね?
私はあの方のもとに嫁ぎます。
おばあさまがかなえられなかった恋を、私が代わりにかなえてあげます。
なぜなら私は、五十年前のおばあさまなのですから。
[2017年12月末日執筆]
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