3.籠城の老将

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民主党惨敗→自公政権奪還
1.導誉に動揺
2.しばし斯波氏
3.籠城の老将

 平安時代の猛将・渡辺綱(わたなべのつな)が羅生門(らしょうもん・らじょうもん)の鬼を切った太刀「鬼切(おにきり)」は、代々源氏本家に伝えられた。
 鎌倉幕府初代執権北条時政が小鬼を切った太刀「鬼丸
(おにまる)」は、代々北条得宗家に伝えられた。
 源氏本家は北条得宗家に滅ぼされ、北条得宗家は新田義貞に滅ぼされ、義貞は斯波高経に滅ぼされたため、二つの宝刀は高経が手に入れた。
 これを欲しがったのが主君の足利尊氏である。
『鬼切と鬼丸を差し出しなさい。二振の持ち主として最もふさわしいのは武家の棟梁たる足利将軍家。同じ足利とはいえ、末流の家が持つべき代物ではない』
 これに高経はカチンときた。
『もともと足利の本流は斯波氏なり!』
 それを口には出さなかったが、尊氏には、
『鬼切と鬼丸は火事で燃えちゃいました〜』
 ということにして、差し出そうとはしなかったのである。

「たとえ将軍が相手でも、家の誇りだけは譲らぬ」
 三条高倉の自邸に帰り、鬼切と鬼丸を抜いて得意げに鑑賞していた高経に、息子で管領の斯波義将が声をかけた。
「六角氏頼の兵八百騎が将軍御所の四方の門を固めたとか。父上は将軍や六角と戦をなさるのですか?」
「いや。ほとぼりが冷めるまで越前に退去しておく。おまえもここにいては危ない」
「分かりました。お供します」
 越前守護代・二宮貞家
(にのみやさだいえ)が父子に提案した。
「城にたどり着く前に追手に討ち取られてしまっては元も子もありません。私が敵を引きつけている間に、どうか御脱出を」
「頼むぞ」
「生きて帰ってこいよ」

 貞治五年(1366)八月八日、おとりの二宮貞家は五百騎を率いて高倉面で挙兵した。
「者ども!将軍さまに目にもの見せてやるがいい!」
「おおーっ!」
 その間に斯波父子は洛北鷹ヶ峰
(たかがみね。京都市北区)から越前へ向けて脱出した。
 主君の脱出を見届けた貞家も後を追って逃げたが、追手はどこまでも追いかけてきたため、振り返って脅した。
「てめーら、しつこいぞ!何なら逃げずに本気で戦ってもいいんだぞ!」
 すると追手たちは、
「え!それはちょっと遠慮しておきます〜」
 いそいそと、京都へ引き上げていった。


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現在の杣山城(福井県南越前町)周辺

 越前に帰った斯波父子は二つの城に分かれて籠城に備えた。
 高経が杣山
(そまやま。福井県南越前町)城に、義将は栗屋(くりや。福井県越前町)城にこもったのである。
 義詮は斯波父子の領国である越前若狭越中守護職を没収し、越前へ討伐軍を派遣した。
 佐々木高秀・六角氏頼・山内信詮
(やまのうち・やまうちのぶあきら)・畠山義深・山名氏冬(やまなうじふゆ)・土岐氏光(ときうじみつ)・赤松光範(あかまつみつのり)・赤松顕範(あきのり)ら七千騎に二城を包囲させたのである。
「拙者は負けぬぞ!耐え抜いてやるぞ!」

 高経はふんばった。
 年を越してもふんばった。
 が、ふんばってもふんばってもクソが出なかった。
 便意はあるが、ブツが出なかった。
「どういうことだ?」
 高経は「しぶり腹
(テネスムス・裏急後重)」になっていた。

 貞治六年(1367)七月十三日、病状が悪化した高経は陣中で没した。享年六十三。
 義将は降伏し、越中にいた南朝方の桃井直常
(もものいなおつね)を討つことで越中守護復任を許された。
 残る越前守護は畠山義深に、若狭守護は一色範光
(いっしきのりみつ)に与えられたのである。

[2012年12月末日執筆]
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