2.忠義か?出世か?

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衆院選2014
1.虐待オヤジ
2.忠義か?出世か?
3.ハーフハーフ

 美濃国主・斎藤道三と記したが、これは過去の話である。
 天文二十三年(1554)、道三は長男・斎藤高政
(さいとうたかまさ。後の義竜)に家督を譲って隠居していた。
 この時、鶴山
(つるやま。鷺山。岐阜市)城に移ったという説があるが、どうもそのまま稲葉山(いなばやま。岐阜市)城で暮らしていたようである。
 弘治元年(1555)に高政が弟二人
(竜重・竜定)を殺害した後、鶴山城に退いたのであろう(「斎藤氏系図」参照)
 この事件で道三と高政父子の確執は決定的となった。
「おのれ、高政! 許さんぞっ!」
 道三は鶴山城を要塞化した。
「お、やる気か?」
 高政は家臣の多数派工作に努めた。
 道三派の武将たちを引き抜き始めたのである。
 西美濃
(美濃)三人衆と呼ばれる稲葉良通(いなばよしみち。一鉄。「虐殺味」参照)・安藤守就(あんどうもりなり。道足。「ロス味」参照)・氏家直元(うじいえなおもと。卜全。「暴力味」参照)がなびいた
 揖斐光兼
(いびみつかね)ら西美濃十八将と呼ばれる人々の大半もなびいた。
 なびかなかったのは、明智光安
(あけちみつやす。光秀の叔父)・竹中重元(たけなかしげちか。半兵衛重治の父)・山内盛豊(やまうち・やまのうちもりとよ。一豊の父)らごく少数であった。

 当然、道化六郎左衛門のところにもお誘いが来た。 
 高政の腹心・日根野弘就
(ひねのひろなり)が訪ねてきた。
「道三には人望がない。斎藤家中の大半が高政様になびいた。これまで裏切りに裏切りを重ねてきたむくいだ。身から出たサビとはこのことよ。悪いことは言わぬ。このまま道三のところにいれば、おぬしもは滅びる。今のうちに高政様に味方せよ」
「確かに道三様は侍には人気がない。が、民には人気がある」
「ワハハ!民に人気があったとしてどうなるものではない。わしは戦の話をしているのだ。戦をするのは民ではなくて侍だ」
「しかし、侍を食わせているのは民。民意を無視すれば、痛い目にあう」
「おぬし、意地でも道三に味方する気か?」
「いや、正直、どちらに味方するか揺れている。五分五分といってもいい。大殿
(道三)はあくまで理想であり、若殿(高政)こそ現実。戦に敗れて命がなくなってしまっては、元も子もない」
「なんだ、よく分かっているじゃないか。だったら高政様に味方せよ」
「それでも、たとえ敗れたとしても、信義を通したい気持ちはある」
「それはみんな同じだ。多かれ少なかれ、誰でも二つの気持ちを持っている。しかしよく考えてみろ。道三というマムシに、信義を通す価値があるのか?次々と主君を殺害したり追放したりしてのし上がってきた下克上に」
「……」
「道三の下克上には道三の実弟の長井道利
(ながいみちとし)殿もお冠だ。道利殿も高政様になびかれた。身内や国内だけではない。国外もそうだ。足利将軍(「剣豪味」参照)駿河今川義元(「最強味」参照)越前の朝倉義景(あさくらよしかげ。「大雪味」参照)近江の浅井(あさい・あざい)・六角(ろっかく。佐々木)、みなみな高政様の味方だ。道三の味方はといえば、尾張の『うつけ(織田信長。「銃器味」など参照)』だけではないか。迷うだけ無駄だ!道三には勝ち目はない!」
「……」
 それでも黙っている六郎左衛門に、弘就は最後の説得をした。
「高政様は道三を討つ決意をなされた。頭を剃
(そ)って玄竜と号された。そして我々にこう言われた。『我に味方する者は我にならえ。元日に剃髪(ていはつ)して登城せよ』と」
「……」
「道化殿。わかるな?おぬしも元日に剃髪して登城すれば、我らの味方だ」
「……」
「高政様は道化六郎左衛門を必要としている。おぬしほどの豪傑なら、出世頭にもなれる。そうだ。おぬしの選択は、出世か死かどちらかしかないのだ」
「……」
「もう一度確認しておく。弘治二年(1556)元日の朝、稲葉山城に剃髪して登城だ。必ず来てくれよ」
「……」
 弘就は帰っていった。
 六郎左衛門はフッと笑った。
「出世か、死か――、か」

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