6.金の切れ目が縁の切れ目 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2019>令和元年11月号(通算217号)金品味 田沼意次賄賂生活6.金の切れ目が縁の切れ目
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田沼意次は常々こう言っていたという。
「金銀は人々の命にも代えがたきほどの宝である。その宝を差し出しても奉公したいと願う者は忠臣であろう。ただし、志の大きさは贈り物の量ではない」
また、こうも言っていたという。
「余は、日々登城して国家のために苦労しているので一刻も心休まることがない。余の唯一の楽しみは、帰宅した際、長廊下にたくさん並べられた賄賂の金品を眺めて回ることだ」
民衆はおもしろくなかった。
「人命よりカネが大切かよ」
浅間山大噴火(1772年。「噴火味」参照)や天明の飢饉(1782〜1787)により、民衆の怒りは頂点に達した。
「人がバタバタ死んでいるのに、お上は贅沢三昧(ぜいたくざんまい)かよ!」
「民たちが今日明日食うものもないのに、田沼のヤローは余裕で賄賂のやり取りかよ!」
「許せねえ!」
民衆は暴徒と化した。
江戸などでは打ちこわしの嵐が起こった。
意次の息子・意知が佐野政言(さのまさこと)にぶっ殺された時は大喝采であった(「改竄味」参照)。
「よくやった!」
「カネまみれのヤローが血まみれになって死によった!」
「ヨッ! 佐野大明神様!」
かつて意次に邪険にされた松平定信も喜んでいた。
「逆襲の好機到来!」
佐野に触発された定信は、意次暗殺を企んだが考え直し、御三家を取り込んで反田沼運動を展開した。
結果、天明六年(1786)八月二十七日に意次は老中を罷免されたのである。
田沼家には意次が小身の頃から一切合財を仕切っていた宰領がいた。
「本日、うちの殿様が老中を免職されたそうですよ」
知らせを聞いても宰領は落ち着き払っていた。
「そうか」
「この屋敷に貯め込んである賄賂のお宝たちはどうなっちゃうんでしょうか?」
「全部幕府に没収されるだろうな」
「ええーっ、いやだ〜」
「決まりだから仕方がない。もうすぐ役人が来る。早く荷物をまとめるんだ」
「役人に差し出しやすいようにしておくんですね?」
「まとめたら、すぐに運び出せるように全部車に載せろ」
「え? 幕府に運ぶんですか?」
「何を言っているんだ。主人を失った我々は自由になった」
「はあ?」
「トンズラするに決まっているじゃねえか」
「!」
その晩、田沼屋敷はもぬけの殻になった。
それでも役人たちは賄賂の行方は捜索しなかった。
どうやら役人たちにも山吹色の手が回っていたようである。
[2019年10月末日執筆]
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