3.被葬者は天皇の皇子か? | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2005>3.被葬者は天皇の皇子か?
|
こうしてみてくると、やはりキトラ古墳の被葬者は皇族、しかも天皇の皇子クラスの人物でしかありえない。
中でも最近まで有力視されてきたのが、天武天皇の皇子の一人・弓削皇子(ゆげおうじ・ゆげのみこ)である。
が、
「被葬者の年齢は五十代の可能性が高い」
によって、三十代で死んだとされる弓削皇子の可能性は少なくなった。
その代わりに浮上してきたのが、その長兄・高市皇子(たけちおうじ・たけちのみこ)。
「壬申の乱で活躍した彼であれば『骨太で大柄の男性』に、いかにもふさわしいではないか」
私も被葬者は天武天皇の皇子の中にいると思っている。
それでも、高市皇子は支持しない。
高市皇子の没年は、四十二、三歳といわれている。五十代ではなく、四十代初めに死んでいるのである。
しかも『延喜式』には、彼の墓は「三立岡墓(みたておかのはか)」だと記されている。彼の墓は高市ではなく、現在の見立山(みたてやま。奈良県広陵町)付近にあったのだ。はっきりした場所は不明だが、なぜか石室が三つあるとされる巣山古墳(同町)などは、いかにも怪しいではないか。
やはり「五十代の可能性が高い」という鑑定結果が出た以上、被葬者は五十代で死んだ皇子の可能性が高いと思われる。
つまり、天武天皇の皇子のうち、
1.墓が明らかにされてなく、
2.死亡時期が古墳造営期に合い、
3.五十代で死んだ皇子。
が、キトラ古墳の被葬者なのであろう。