4.被葬者はズバリこの人! | ||||||||||||||
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では、具体的に誰なのか?
下記に天武天皇の十人の皇子名・その生没年代・享年・墓を挙げてみた。
● 天武天皇の皇子 ● | |||
皇子名=別名(生没年) | 享年 | 墓(所在地) | |
第一皇子 | 高市皇子(654?-696) | 42,3歳 | 三立岡墓 (奈良県広陵町?) |
第二皇子 | 草壁皇子(662-689) | 28歳 | 真弓丘陵。束明神古墳? (奈良県高取町) |
第三皇子 | 大津皇子(663-689) | 24歳 | 二上山墓 (奈良県当麻町) |
第三皇子 | 舎人皇子=舎人親王(676-735) | 60歳 | ? |
第四皇子 | 長皇子=那我親王(?-715) | ?歳 | ? |
第五皇子 | 穂積皇子=穂積親王(?-715) | ?歳 | ? |
第五皇子 | 磯城皇子(?-?) | ?歳 | ? |
第六皇子 | 弓削皇子(?-699) | ?歳 | ? |
第七皇子 | 新田部皇子=新田部親王(?-735) | ?歳 | ? |
第九皇子 | 忍壁皇子=刑部親王(?-705) | ?歳 | ? |
まず、これを見ておかしな点に気付くであろう。
「どうして第三皇子と第五皇子が二人おり、第八皇子と第十皇子がいないのか?」
実はこれは単なる年齢順ではなく、序列も含んでいるからである。
実際のところ忍壁皇子はもっと年長なのであるが、持統天皇に疎まれていたようなので、第九皇子に下げられたのであろう。
また、逆に舎人皇子はもっと年少のはずである。
ただ、残る皇子については、ほぼ年齢順に並んでいると思われる。
では、この中から、
1.墓が明らかにされてなく、
2.死亡時期が古墳造営期に合い、
3.五十代で死んだ皇子。
を、消去法で抽出したい。
まず、墓が明らかである高市皇子・草壁皇子・大津皇子は外される。草壁・大津については、年齢からみても問題外である。
次に、死亡時期が古墳時期に合っていない舎人皇子・新田部皇子も除外する。
この両皇子は奈良時代前期まで生存し、皇族の長老として一目置かれた人々である。
また、磯城皇子であるが、彼は『続日本紀』に登場しない皇子である。私は彼を天智天皇の皇子・志貴皇子(しきのおうじ・しきのみこ。施基親王)と同一人物と見ているので、彼も除外したい。
さて、ここまでで残ったのは、以下の四名。
この中から五十代で死んだ人を探せばいいわけだ。
第四皇子 | 長皇子 | (?-715) | ?歳 |
第五皇子 | 穂積皇子 | (?-715) | ?歳 |
第六皇子 | 弓削皇子 | (?-699) | ?歳 |
第九皇子 | 忍壁皇子 | (?-705) | ?歳 |
とはいえ、いずれも生年が不明でなので正確な年齢をはじき出すのは困難である。
が、その活躍時期や、父母・兄弟・子孫の生没年からおおよその年ははじき出すことができる。
私がはじき出した彼らのおおよその生没年及び享年は、以下の通り。
長皇子 | (66?-715) | 50代 |
忍壁皇子 | (66?-705) | 40代 |
弓削皇子 | (66?-699) | 30代 |
穂積皇子 | (67?-715) | 40代 |
つまり、五十代で死んだのは長皇子ただ一人であり、キトラ古墳の被葬者は彼の可能性が最も高いというわけである。
では、私がなぜ、長皇子の享年を五十代とはじき出したのか?
実は彼については、その正確な生年や出生地まで分かってしまった。
彼は天智天皇二年(663)に筑紫(つくし。福岡県)の娜の大津(なのおおつ。福岡市博多区)で生まれ、霊亀元年(715)に数え五十三歳で没したのであろう。
なぜ分かったのか?
カギは長皇子のすぐ上の異母兄・大津皇子。
実は大津皇子は日本軍が百済救援のため筑紫に出征していた天智天皇二年(663)に「娜の大津」で生まれたので「大津皇子」と名付けられたのである。
「娜の大津」の別名は「長津」というので「長皇子」もまた出生地の名を取って名付けられたに違いない。
それだけではない。
大津皇子が誕生したこの年は、日本は白村江の戦で敗れ、帝都・飛鳥に引き上げた年である。
つまり、大津皇子の異母弟である長皇子が筑紫で生まれるには、同じ年でなければおかしいわけだ。
ちなみに大津皇子の異母兄・草壁皇子も、ほぼ時同じくして娜の大津で生まれている(近所に草壁郷がある)。
つまり草壁皇子・大津皇子・長皇子は、ほぼ同時期に同じ場所で違う母親から誕生したことになる。
しかも三皇子の母には驚くべき共通点がある。
草壁皇子の母 | ⇒ 持統天皇(天武天皇の皇后) | ⇒ 父は天智天皇 |
大津皇子の母 | ⇒ 大田皇女(天武天皇の妃) | ⇒ 父は天智天皇 |
長皇子の母 | ⇒ 大江皇女(天武天皇の妃) | ⇒ 父は天智天皇 |
これは偶然であろうか?
偶然であるはずがない。
「異国との戦い時に、内乱が起こってはならない」
そう考えた天智天皇が、弟・天武天皇(当時は大海人皇子)を懐柔するため、三人の娘を同時に嫁がせたのだ(後に新田部皇女も嫁ぎ、舎人皇子を出生)。
「三人やれば、一人は皇子を生むであろう。キズナが深まるであろう。そして、弟が変な気を起こすことはないはずだ」
天智天皇のもくろみに、天武天皇も乗った。
天武天皇は実にマメであった。
その結果、三人の母は相次いで懐妊、三皇子がほぼ同時期に同じ場所で誕生する事態が起こってしまったわけである。