4.味方来援

ホーム>バックナンバー2023>令和五年4月号(通算258号)鼓舞味 甕破り柴田4.味方来援

WBC世界一&ウクライナ訪問
1.敵軍来襲
2.城内偵察
3.決死突撃
4.味方来援

 六角軍が撤退した後、それを待っていたかのように佐久間信盛が千二百人を率いて来援した。
「助けに来ました〜。あーら残念、敵はもう帰っちゃってますよね〜」
 柴田勝家は疑った。
「おまえ、わざと終わってから来ただろ?」
「いえ、そんなことは……」
「じゃあ、今から六角を攻めに行くぞっ」
「え! そんな、無理しなくても〜。まだまだ敵勢のほうがだいぶ多いじゃないですか〜」
「それがどうした。多勢に無勢でも、さっきみたいにスキをうかがって不意打ちを仕掛ければ勝てるのだ!」
「まあ、そうですけど〜」

 六月四日、野洲川左岸に布陣していた六角軍に、柴田勝家・佐久間信盛勢が右岸から急襲した。
「また鬼たちが来たぁー!」
 六角軍は三雲定持が敗死するなど八百人余りの死者を出して壊走したという
(野洲河原の戦・落窪の戦)
 ちなみに三雲の愛刀「備前光忠
(びぜんみつただ。実休光忠)」は、三好実休(みよしじっきゅう)を経て織田信長の愛刀になり、あの本能寺の変でも使われたという(「ロス味」参照)

[2023年3月末日執筆]
ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ

※ この「甕破り柴田」の逸話は史実ではないともいわれています。
※ 野洲河原の戦
(落窪の戦)は史実ですが、この戦いでは柴田勝家より佐久間信盛のほうが活躍したともいわれています。
※ 『絵本太閤記
(えほんたいこうき。武内確斎作)』では勝家を救援したのは佐久間ではなく木下藤吉郎(豊臣秀吉)になっていますが信じられません。
※ 佐久間には「退き佐久間」の異名がありますが、そう呼ばれるほどの活躍は史実では確認できません。ひょっとして「金ヶ崎の退き口」で木下ら殿軍を指揮していたのは信盛だったのかも知れません。

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