103.子供味 基礎用語集

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鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所を・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ幕府は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、末期には内管領・長崎氏が専横、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡し、幕府は解体した。 

北畠親房(きたばたけちかふさ)
 (1293-1354) 公卿・武将・学者。師重(もろしげ)の子。万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)・吉田定房(よしださだふさ)とともに「後の三房」と呼ばれて後醍醐(ごだいご)天皇の信任を受け、大納言・准大臣(じゅんだいじん)に昇進、1333長男の顕家(あきいえ)とともに義良(よしのり)親王を奉じて陸奥へ下り、1335足利尊氏(あしかがたかうじ)がそむくと上洛するが、尊氏の東上によって伊勢へ引き、常陸で抗戦、吉野(よしの)に戻って南朝の重鎮となり、戦いの合間に史書『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』有職故実(ゆうそくこじつ)書『職原抄(しょくげんしょう)』を著した。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

蔵人頭(くろうどのとう)
 蔵人所(くろうどところ)長官。定員二人。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子(くすこ)の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。詐欺味1

元弘の変(げんこうのへん)≦元弘の乱
 1331後醍醐(ごだいご)天皇による二度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件とその後に鎌倉幕府を滅ぼした戦い。1324正中(しょうちゅう)の変にも懲りずに後醍醐天皇は再び倒幕の計画を練るが、近臣・吉田定房(よしださだふさ)が幕府に密告、日野俊基(ひのとしもと)・文観(もんかん)らは逮捕され、危険を感じた後醍醐天皇は京都を脱出、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが、敗れて捕らえられ、隠岐へ島流しにされた。しかしこの後、楠木正成(くすのきまさしげ)ら悪党の活躍や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)ら有力御家人の裏切りによって鎌倉幕府は崩壊した。
窮地味 子供味

御家人(ごけにん)
 鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士のこと。将軍家家臣。将軍から本領安堵(ほんりょうあんど。土地支配権の保証)・新恩給与(しんおんきゅうよ。功によって新たな土地や職を与えること)してもらう(御恩)代わりに、京都大番役(皇居・京都警備)・鎌倉番役(幕府警備)・軍役(戦争参加)などの義務(奉公)をこなした。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。窮地味
子供味

守護代(しゅごだい)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた守護の代官。在国しない守護に代わって行政を担当した。戦国時代には越後の長尾氏、越前の朝倉氏、尾張の織田氏、美濃の斎藤氏、出雲の尼子氏など、守護に取って代わって戦国大名に成長するものもあった。

承久の乱(じょうきゅうのらん)承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221二代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園群に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。栄光味

正中(しょうちゅう)の変
 後醍醐(ごだいご)天皇による一度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件。1324後醍醐天皇は権中納言・日野資朝(ひのすけとも)、蔵人・日野俊基(としもと)、美濃の武士・多治見国長(たじみくになが)や土岐頼兼(ときよりかね。頼時)らと無礼講と称して幕府転覆の密談を重ねるが、一族の船木頼春(ふなきよりはる。頼治。土岐頼員)が六波羅探題(ろくはらたんだい)に密告、京都の宿所を急襲されて国長・頼兼らは敗死し、資朝は佐渡に流刑、後醍醐天皇も疑われたが、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)に言い訳させて乗り切った。
秘密味

神道(しんとう)
 日本に古来から伝わる民族信仰。古墳時代の氏神(うじがみ)崇拝に始まり、平安時代に神社制度が整備され、鎌倉時代には伊勢(いせ)神道、室町時代には唯一(ゆいいつ)神道、江戸時代には垂加(すいか)神道といった理論も生まれた。

神皇正統記(じんのうしょうとうき)
 南北朝時代の歴史書。1339頃成立。北畠親房(きたばたけちかふさ)著。神代〜後村上天皇までの歴史を簡潔に記し、南朝の正当性を主張。

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図

醍醐天皇(だいごてんのう)←敦仁親王(あつぎみしんのう)
 (885-930) 伝六十代天皇(在位897-930)。宇多(うだ)天皇の皇子。母は藤原高藤(たかふじ)の女・胤子(いんし)。893皇太子となり、897父から「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」と皇位を譲られて即位、901昌泰(しょうたい)の変で菅原道真(すがわらのみちざね)を左遷し、902延喜の荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発令、藤原時平(ふじわらのときひら)らに『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』「延喜格式(えんぎきゃくしき)」を、905紀貫之(きのつらゆき)らに勅撰和歌集『古今和歌集』を編集させ、907延喜通宝を鋳造、914三善清行(みよしきよゆき)らに意見封事を上申させるなど延喜の治を行った。受験味 詐欺味3
入試味

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

太平記(たいへいき)
 軍記物語の一。四十巻。応安年間(1368-1375)成立。小島法師?著。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱を描く。暴走味 

内管領(ないかんれい・うちかんれい・うちのかんれい)
 得宗(とくそう)家の執事のこと。御内人(みうちびと。得宗直臣)の代表。鎌倉後期、執権の後見人として権勢を誇った。平頼綱(たいらのよりつな)・長崎高綱(たかつな。円喜)・高資(たかすけ)父子がその代表。

長崎高資(ながさきたかすけ)
 (?-1333) 武将・幕僚。高綱(たかつな。円喜)の子。父から内管領を譲られて幕府の実権を握り、執権・北条高時(ほうじょうたかとき)の下で賄賂(わいろ)政治を展開、1326出家した高時に代えて金沢(北条)貞顕(かねざわさだあき)を執権に擁し、1331専横を憎んだ高時に殺されかけるが和解し、1333鎌倉幕府滅亡時に一族とともに東勝寺で自害した。

南朝(なんちょう)
 (1336-1392) 1336足利尊氏(あしかがたかうじ)によって京都を追われた大覚寺統(だいかくじとう)の後醍醐(ごだいご)天皇が大和の吉野(よしの。奈良県吉野町)に立てた朝廷。後醍醐・後村上(ごむらかみ)・長慶(ちょうけい)・後亀山(ごかめやま)天皇と四代続いたが(1351-1352一時合体)、1392南北朝合体(南北朝合一)で消滅。
総理味

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

仏教(ぶっきょう)=仏道(ぶつどう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んで浸透した。

法勝寺(ほっしょうじ)
 京都市左京区所在(廃絶)。1077建立。六勝寺(ろくしょうじ)の随一。白河(しらかわ)天皇の御願寺。金堂・講堂・五大堂・阿弥陀堂・法華堂・九重塔・八角堂などがあったが、鎌倉時代にたびたび火災にあい、南北朝時代に衰退した。

政所(まんどころ)
 公卿の家政機関。四位以下の公家の家政機関は公文所(くもんじょ)という。1190源頼朝(みなもとのよりとも)が権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう)任官を機に公文所を政所と改称した。初代別当は大江広元(おおえのひろもと)。1203北条時政(ほうじょうときまさ)が別当になってからは執事と呼ぶのが普通で、以後は北条氏が世襲した。室町幕府の政所は財政事務を担当、長官は執事で、伊勢(いせ)氏が世襲した。

村上天皇(むらかみてんのう)←成明親王(なりあきらしんのう)
 (926-967) 伝六十二代天皇(在位946-967)。醍醐(だいご)天皇皇子。母は藤原基経(もとつね)の娘・穏子(おんし)944兄・朱雀(すざく)天皇の皇太子となり、946譲位を受けて即位、949藤原忠平(ただひら)死後は関白を置かず、951『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』編集を命令、957菅原文時(すがわらふみとき)の意見封事三か条を入れ、958乾元大宝(けんげんたいほう)を鋳造するなど天皇親政を行ったため、後世に天暦(てんりゃく)の治と呼ばれた。

護良親王(もりよししんのう・もりながしんのう)←尊雲法親王(そんうんほっしんのう)=大塔宮(おおとうのみや・だいとうのみや)
 (1308-1385) 皇族。武将。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は源親子?1327天台座主(てんだいざす)となるが、1331倒幕のため比叡山(ひえいざん)を出て還俗、吉野(よしの)で挙兵し、諸将に令旨(りょうじ)を飛ばして倒幕に尽力、1333建武の親政で征夷大将軍になるが、足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立して幽閉され、1335中先代(なかせんだい)の乱の際、鎌倉で足利直義(ただよし)に殺された。

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