本文1.任那(加羅)四県割譲問題 | ||||||||||||||
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継体天皇(けいたいてんのう)六年(512)四月、穂積押山(ほづみのおしやま)が馬四十四頭のお土産を持って百済に渡った。
十二月、百済は倭に使者を返し、
「任那四県(朝鮮半島南西部。オコシタリ・アロシタリ・サダ・ムロ)を下さい」
と、頼んできた。
押山はオコシタリ・アロシタリ両県の長官である。彼は大王・継体天皇に進言した。
「この四県は百済に隣接し、倭からは遠く離れています。放っておけばすぐに(新羅や高句麗に)奪われましょうが、百済領にしておけば、しばらくは安心でしょう」
これに大連・大伴金村も同調、難波(なにわ。大阪市)の迎賓館にいた百済使に承諾の旨を伝えるために大連・物部麁鹿火(もののべのあらかひ・あらかび)を遣わした。
が、麁鹿火の妻は反対した。
「住吉大神(すみのえ・すみよしのおおかみ)は三韓(この場合は百済+新羅+任那)をまだ胎内にいた応神天皇(おうじんてんのう)にお譲りになりました。そこで神功皇后(じんぐうこうごう)は武内宿祢(たけのうちのすくね・たけしうちのすくね)とともに各所に役所を置き、三韓経営の拠点にしてきました。もし、他国にこれを与えれば、我が国は衰退し、あなたは長く後世まで国民の非難を受け続けることになるでしょう。おやめくださいませ」
麁鹿火は困った。
「大王の命令だから仕方ないではないか」
「病気になったことにすればいいではありませんか」
麁鹿火は仮病を使った。
「病気で難波に行けませぬ〜」
そういうことにした。
そのため難波には別人が遣わされた。
こうして任那四県は百済に割譲されたのである。
このことを後で知った太子・勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ。後の安閑天皇。継体天皇の第一皇子。「天皇家系図」参照)は怒った。
「応神天皇以来統治してきた四県を、そう簡単に百済に渡してなるものか」
勾大兄皇子は難波に新羅系外交官・日鷹堅磐(ひたかのかたいわ)を遣わし、
「四県割譲は承認できない」
旨を伝えさせた。
が、百済使は取り合わなかった。
「これは何かの間違いでしょう。すでに大王は『割譲する』と言われました。あなたは太い杖(つえ)と細い杖とどちらでたたかれたほうが痛いですか? 太子の意見より大王の御意見に従うのは当然のことでしょう」
しばらくして流言が流れた。
「大伴金村と穂積押山は百済から賄賂(わいろ)をもらっている」