検証2.継体天皇の先客 | ||||||||||||||
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これが継体天皇の即位のいきさつである。
ここにもいくつかおかしな点があるが、特におかしいのは最後の部分であろう。
「なぜ継体天皇は河内で即位したのか? ヤマト政権(大和王権・大和朝廷)の本拠は大和ではないのか?」
その通りである。
だから継体天皇は最後には大和に都を遷(うつ)している。
が、それまでに実に二十年の歳月を費やしているのである。
継体天皇元年(507) | 十二月 | 河内樟葉宮(大阪府枚方市) |
継体天皇五年(511) | 十月 | 山背筒城宮(京都府京田辺市) |
継体天皇十二年(518) | 三月 | 山背弟国宮(京都府長岡京市) |
継体天皇二十年(526) | 九月 | 大和磐余玉穂宮(奈良県桜井市) |
これはいったいどういうことであろうか?
なぜ継体天皇はすぐに大和に入り、大和に住まなかったのか?
入りたくとも入れなかったと考えるのが普通であろう。
そう。大和には「先客」がいたため入れなかったのである。
では「先客」とは誰か?
私の推測では、倭彦王(やまとひこのおう)に違いない。
そう。実は倭彦王は金村に擁されて大王に即位していたのである。
彼が金村の軍勢を恐れて逃げたのは二十年後のことであり、それまでは大和に居し、倭の大王として君臨していたのであろう。