検証3.継体天皇の正体 | ||||||||||||||
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では、なぜ金村は倭彦王という大王がいるのに、継体天皇を即位させようとしたのか?
金村には誤算があった。
「倭彦王をお飾りにして実は私が実権を握ろう」
そう考えていたものの、思いのほか倭彦王が傑物だったために執政できなかったのである。
「こんなはずでは……」
で、意見の食い違いから仲たがいをした。
「もうこんな大王なんていらない! クビにしてやる!」
そうはいっても倭彦王は大王である。
仮にも臣下の自分が簡単に主君をクビにできるはずがなかった。
誰か対抗馬を立て、圧倒的な武力でもって脅して退位してもらうしかなかった。
「倭彦王に勝てそうな対抗馬はいないだろうか?」
金村は探した。
そして、三国にその男はいた。
亡国の祖国を立て直した、武勇に優れた王族がいた。
そう。それが男大迹王。後の継体天皇である。
金村はニヤリとした。
「あのお方なら倭彦王にも勝てる!」
そして、ほくそ笑んだ。
「フッフッフ! あのお方なら、私が実権を握ることもできる!」
金村は三国に行った。
この場合の三国は「ミクニ」ではなく、「サンゴク」である。
彼は男大迹王を迎えに三韓、すなわち朝鮮半島に渡ったのである。
「え? 男大迹王って、朝鮮半島にいたの!?」
いたのである。
男大迹王の韓名を、武寧王(ぶねいおう。ムニョンワン)といった。
そう。彼は行都督百済諸軍事寧東大将軍百済王、つまり百済伝二十五代国王であった。
「と、いうことは継体天皇と武寧王は同一人物なのか!?」
驚かれるかもしれない。
にわかに信じられないことかもしれない。
が、私は驚くべき証拠を『伊予国風土記』逸文から発見した。
「大山祗神(おおやまづみのかみ)は百済から来日し、初め摂津(せっつ。大阪府北部ほか)の三島郡(みしま。大阪府北東部)に居し、後に伊予(愛媛県)に移った」
摂津の「三島」は継体天皇の陵墓がある、継体天皇ゆかりの地である。
武寧王の別名は「島王」である。
大山祗神の別名は「三島」大明神である。
継体天皇が即位した河内は百済人ゆかりの地である。
継体天皇の即位を説得した河内馬養荒籠は百済系渡来人である。
大山祗神が移った伊予は武寧王が百済に帰るときに立ち寄るであろう地である。
継体天皇の先帝・武烈天皇(ぶれつてんのう)と、武寧王の先帝・東城王(とうじょうおう。トンソンワン。末多王)は、共に暴君である。
これらのことはいったい何を意味しているのであろうか?
考えられることは一つしかない!
継体天皇=武寧王=大山祗神なのである!
「どうか倭の大王に御即位を!」
金村の頼みを聞いて、武寧王は初めは一笑に付したであろう。
そして、疑いも持ったであろう。
(こやつはあわよくば百済を乗っ取ろうとしているのではないか)
それでも金村は説き伏せた。
「今こそ三韓と倭は一つにならなければなりません! かつて三韓と倭は一つでした! 天日槍(あまのひぼこ。天日矛)と神功皇后の時代は最強でした!(「紙幣味」参照) 今、三韓が高句麗に押され、倭が乱れているのは、一つになっていないからにほかなりません! さあ、今こそ倭を制圧なさいませ! あなた様の故郷にお戻りくださいませ! 百済と倭の架け橋であるあなた様が立たなければ、いったい誰が立つというのだっ!」
武寧王は倭生まれといわれている。
生まれただけではなく、若い頃は倭で暮らしていたとも伝えられている。
武寧王の木棺は日本の近畿地方にしか自生していないコウヤマキの材で作られているという。わざわざ倭から取り寄せて作らせたとしか考えられないのである。このことだけからしても、彼が倭にただならぬ愛着を持っていたことがうかがい知れるであろう。
あるいは彼の正体は、日本の皇族だったのかもしれない。本当に応神天皇の五世孫だったのかもしれない。
武寧王は決断した。
倭に渡り、摂津の三島に住み、河内樟葉宮(くすはのみや)で継体天皇として即位し、武烈天皇の姉・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間に欽明天皇をもうけ、倭彦王と戦ったのである。
当然、その間も継体天皇=武寧王は倭と百済を行き来していた。
言うまでもなく、留守中は金村が思うがままに執政したのである。
そのため大伴氏は三韓との玄関口・大阪湾周辺に勢力を築き、その後も百済との交渉役を務めた。
これで、金村が百済に何をしてほしかったのかもお分かりと思う。
金村は倭彦王と戦うための援軍を百済に要請したのである。
その証拠に百済は継体天皇七年(513)六月に姐弥文貴(さみもんくい)・州利即爾(つくそに)二将軍を派遣、五経博士・段楊爾(だんように)まで付けて送ってくれた。
「あら。軍師までくれるの。ありがと〜」
喜ぶ金村に、百済はさらにせびった。
「その代わりと言っちゃなんですが、コモン・タサの地もください」
「仕方ないね〜」
金村はこれもまた割譲してしまうのであった。
これでなぜ金村が任那四県などを百済に割譲したもお分かりであろう。
金村は主君である継体天皇=武寧王の命令に従っただけのことである。
それも国外に「割譲」したのではなく、国内で「移転」しただけのことである。
それでも物部麁鹿火など保守派や、勾大兄皇子ら新羅派は反対した。
よって後に金村はこの時のことを大連・物部尾輿(おこし)らに責められて失脚してしまうのであった。
失脚後の金村の消息は不明である。住吉(すみのえ・すみよし。大阪市住吉区)に隠居したとされるだけで、『古事記』や『日本書紀』には没年が記されていない。最高権力者ともあろう人物の没年が記されていないのは不思議である。おそらく、倭にいづらくなった彼は百済に渡ったのであろう。
「あんた誰?
見かけない顔だけど……」
「あ、私の名前は『金 大伴』です。よろしく〜」
金村没後、大伴氏は衰退の一途をたどった。
で、五世孫・家持の時代には、バリバリの右翼になっていた(「怨念味」参照)。
皮肉なことに家持が目の敵にした桓武天皇の生母・高野新笠(たかののにいかさ。和新笠)は、武寧王の末裔(まつえい)といわれているのであるが……(「ヤミ味」参照)。
一方、武寧王は継体天皇十七年(523)に崩じ、武寧王陵(韓国忠清北道公州市)に葬られた(継体天皇の没年は531年のほか諸説ある)。
では、継体天皇=武寧王とすれば、伝継体天皇陵とされている三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ。大阪府茨木市)には、いったい誰が葬られているのであろうか?
案外、金村なのかもしれない。
* * *
欽明天皇十三年(552)、百済国王・聖明王によって倭に正式に仏教が伝えられた(538年とも)。
聖明王は武寧王の子であり、欽明天皇は継体天皇の子である。
これは偶然であろうか?
いや、これが必然でなくて何であろうか?
* * *
最後に改めて自説についてのおさらい。
1.穂積押山は百済に何をしにいったのか?
⇒ お願いに行った。
2.大伴金村は百済に何をしてほしかったのか?
⇒ 援軍を出してほしかった。
3.なぜ金村は百済にあっさりと任那四県を割譲したのか?
⇒ 主君の命令に従っただけ。
4.なぜ継体天皇は大和ではなく河内で即位したのか?
⇒ 大和には先客(倭彦王)がいたから。
5.なぜ継体天皇は大和に入るまで二十年の歳月を要したのか?
⇒ 倭彦王が強かったから。
6.継体天皇の正体は何者なのか?
⇒ 百済伝二十五代国王・武寧王 = 大山祗神
7.なぜ大伴氏は大阪湾近辺に勢力を持ったのか?
⇒ 朝鮮半島との交渉のため。
8.なぜ大伴氏には百済との交渉役が多いのか?
⇒ 武寧王との縁。
9.なぜ『記紀』には金村の没年が記されていないのか?
⇒ 百済に渡ったため?
10.なぜ仏教は欽明天皇の時代に百済の聖明王によって伝えられたのか?
⇒ 偶然ではなく必然!
[2006年4月末日執筆]
参考文献はコチラ
【大伴金村】おおとものかなむら。大連。
【穂積押山】ほづみのおしやま。任那のオコシタリ・アロシタリの長官。
【物部麁鹿火】もののべのあらかひ。大連。
【物部麁鹿火の妻】
【勾大兄皇子】まがりのおおえのおうじ。継体天皇の子。後の安閑天皇。
【日鷹堅磐】ひたかのかたいわ。新羅系外交官。
【百済の使】
【朝鮮の人】
【大山祗神】おおやまづみのかみ。山の神。
【武寧王】ぶねいおう。百済の国王。
【継体天皇】けいたいてんのう。倭の大王。