1.伴善男の屈辱 〜生い立ち 

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内部告発 〜 平安のミスター内部告発
1.伴善男の屈辱 〜 生い立ち
2.伴善男の憤懣 〜 承和の変
3.伴善男の躍進 〜 善ト訴訟事件
4.伴善男の隆盛 〜 大納言昇進
5.伴善男の策謀 〜 嵯峨源氏の存在
6.伴善男の没落 〜 応天門の変
  

 伴氏はもともと大伴氏である。
 伝五十三代・淳和天皇
(じゅんなてんのう)の実名が「大伴」といったので、天皇と同名では恐れ多いということで、「伴」と改姓させられた。弘仁十四年(823)のことである。したがって、弘仁二年(811)生まれと伝わる伴善男も、幼少の頃は「大伴」を名乗っていた。

伴 善男 PROFILE
【生没年】 811-868
【別 名】 大伴善男
【出 身】 平安京(京都市)
or陸奥国府(宮城県多賀城市)
or佐渡島(新潟県佐渡市)
【本 拠】 平安京内(京都市)
【職 業】 公卿(政治家)
【役 職】 大内記→蔵人→式部大丞
→右少弁→蔵人頭→右中弁
→参議→中納言→大納言
【位 階】 正六位上→従五位下→従五位上
→従四位上→正四位下→従三位
→正三位
【 父 】 大伴国道(大伴継人)
【 子 】 伴中庸ら
【兄 弟】 伴河男?・伴竜男?
【主 君】 仁明天皇・文徳天皇・清和天皇
【上 司】 藤原良房・源信・藤原良相ら
【後 援】 藤原順子
【友 人】 小野篁・登美直名ら
【部 下】 伴清縄・紀豊城・伴秋実・生江恒山ら
【仇 敵】 源信・正躬王・藤原良房ら
【墓 地】 伊豆国(静岡県)

 善男は伴国道(くにみち。大伴国通)の五男として生まれた。
 国道は朝廷の役人で、善男の誕生の年には陸奥大掾
(だいじょう。国司判官)に任じられ、現地に赴いている。善男は生地は平安京と思われるが、あるいは陸奥国府(宮城県多賀城市)なのかもしれない(一説に、佐渡島出生説もある)
 また、母の名は伝わらず、確定できる兄弟も不明である。

 国道は幼い善男を同僚に紹介したことであろう。
「『善男』って、いうんですよ」
(善男だってよ!)
 口に出しては言わないが、同僚は吹き出したかもしれない。
(先祖代々犯罪者一家の息子に、なんてふさわしくない名前だ!)

 国道まで、伴(大伴)氏は二代続けて凶悪犯罪者のレッテルを貼られて死んでいた。
 国道の父・大伴継人
(つぐひと)は、延暦四年(785)に長岡京造営責任者・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)を射殺したとして死刑にされ(「怨念味」参照)、継人の父・大伴古麻呂(こまろ)も、天平宝字元年(757)に橘奈良麻呂の変(「意地味」参照)に加わって逮捕され、激しい拷問(ごうもん)の果てに獄死していた。

伴善男関係図 国道もまた、元流刑者だった。
 父の罪に連座し、二十年もの間、佐渡島に島流しにされていたのである。そのために彼の出世は遅れた。
「せめて息子には、まっとうな人生を歩んでもらいたい」
 国道が息子に「善男」と名づけたのは、そのような切実な願いがあってのことであろう。

 少年時代の善男は、いじめられっ子だったと思われる。
「やーい、やーい、流刑者の息子!」

「死刑囚の孫!」
「凶悪犯のひ孫!」
 みんなにいじめられ、善男は落ち込んだ。
 いつも小さくなって生きていたためか、身長は伸びず、体重も増えず、絶えず周囲の様子を気にしていたせいか、目つきがギラギラ鋭くなった。
「いかにも何かやらかしそうな顔つきだ」
 人々はうわさした。
 いつしか善男は人を避け、読書にいそしむようになった。そして、心に誓った。
「いつか見返してやる! オレサマをバカにしたヤツみんなを、土下座させてみせる!」

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