2.伴善男の憤懣 〜承和の変 | ||||||||||||||
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伴善男は二十歳になると、校書殿(きょうしょでん。内裏の書庫)に勤めるようになった。
現在でいえば、国会図書館の司書といったところであろうか。
そこで書物をあさっているうちに、善男は信じられないものを目にした。
それは、かつて大伴氏が栄華を極めていた頃の記述だった(「日朝味」「国境味」参照)。
善男は喜び震えた。
「何が犯罪者一家だ。みんなは知らないんだ。昔、大伴氏がどんなにすごかったかを知らないんだ。古墳時代、大伴氏は他に比類なき軍人政治家一家だった。天皇家の第一の側近として、他の豪族どもを圧倒していた。藤原氏(元中臣氏)も石川氏(いしかわし。元蘇我氏)も石上氏(いそのかみし。元物部氏)も、みんなみんな我が先祖の足下にひざまずいていたんだっ!」
しかし、時代は変わった。
大伴氏は物部氏に追い落とされ(「国境味」参照)、物部氏は蘇我氏に討たれ(「イヌ味」参照)、蘇我氏は藤原氏に滅ぼされた。以後はおおむね藤原氏の天下である。
承和九年(842)、平安時代初期最強の権力者・嵯峨上皇が没すると、その後釜(あとがま)をねらう藤原良房は、皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)を謀反の疑いで失脚させ、その一派の大納言・藤原愛発(あらち)、中納言(ちゅうなごん)・藤原吉野(よしの)、参議・文室秋津(ふんやのあきつ)らを追放、妹順子(じゅんし・のぶこ)の子・道康親王(みちやすしんのう。後の文徳天皇)を強引に皇太子に擁立した。
いわゆる承和の変である(「安保味」参照)。
政変後、良房は大納言に昇進、ここに彼の地位は確固たるものとなった。
「これからは良房の時代だ」
世間の人々はうわさした。
善男はおもしろくなかった。
承和の変では伴氏一族にも処罰者があった。
恒貞親王の側近だった伴健岑(とものこわみね)は、但馬権守(兵庫県北部副知事)・橘逸勢(「貨幣味」参照)とともに謀反の首謀者として流刑にされていた。
善男は陰口をたたいた。彼は相当口汚かったと伝えられている。
「エセ占い師が身のほど知らずに増長しやがって」
藤原氏は古墳時代、朝廷の神道・祭祀(さいし)を担当していた。当然、占いもしていたわけで、そうののしったわけである。
「今の藤原氏のやっていることは、飛鳥時代の蘇我氏と同じだ。蘇我氏は一族の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を次期天皇にすることを重ねて権力を握ったのだ。そして、周囲の反発を買って滅ぼされたのだ。良房もまた、滅ぼされる運命にあるのだ!」
が、今のところ良房に滅亡の兆しはなかった。周囲の人々も良房にこびへつらっている。
「周りの連中も連中だ。良房の権勢に屈し、都合のいいように律令をねじ曲げ、健岑や逸勢らを島流しにした裁判官も悪い!」
承和の変の裁判を担当したのは、参議兼左大弁(さだいべん。官長)・正躬王(まさみおう)、参議兼右大弁(うだいべん。官房副長官)・和気真綱(わけのまつな)ら弁官局の面々である。
「今に見ろ。汚いエサに群がる強欲なハエども! オレサマが一匹残らずたたき殺してやる!」
善男は、争うように良房の肩をもむ取り巻きたちを、両眼に炎してにらみつけた。