ホーム>バックナンバー2002>３．伴善男の躍進〜善�ﾄ訴訟事件

　承和十一年(844)、伴善男三十四歳の年、彼は右少弁(うしょうべん)に任じられた。
　弁官局幹部の末席に連なったのである。

　(こいつらか。か弱き無実のヒツジたちを辺境の地へ追いやった卑劣で不埒(ふらち)なヤカラどもはっ)
　善男は上司たちをガン付け回した。

　承和十三年(846)、弁官局に訴訟が舞い込んできた。
　法隆寺僧・善�ﾄ(ぜんがい)が、寺の財産を勝手に処分し、利益を着服した檀越(だんおち。寺院後援者)・登美直名(とみのただな)を訴えたのである。
　そこで弁官局で律令に照らして審議が行われ、直名に「遠流(おんる。遠国への流刑)」の判決が下された。

　ところが、善男が告発した。
「この裁判には不正がありました。よって、裁判は無効です。登美直名よりも、不正な裁判を行った左大弁・正躬王、右大弁・和気真綱、左中弁・伴成益(なります)、右中弁・藤原豊嗣(とよつぐ)、左少弁・藤原岳雄(たけお)を処罰するべきです。よって、彼らを告訴します」

　寝耳に水の部下の告発に、正躬王らは驚き怒った。
「何を言い出すのだ！　我々の審議のどこに不正があったというのだ！」
　善男はさらさらと答えた。
「『僧尼令(そうにりょう。僧尼に関する規則)』によれば、僧はまず、治部省に訴え出なければなりません。そこを飛ばして太政官の弁官局で審議することは無効です。また、善�ﾄの訴状には直名が犯罪を行った年月日が記されていません。『闘訟律(とうしょうりつ。人権尊重に関する規定)』によれば、このような証拠不十分の訴状は受理してはならないことになってます。しかし、あなた方はこれも無視して受理してしまいました。これらを不正と呼ばずして、なんと呼ぶのですか？」
「何をバカな。そんなことは今回だけが例外ではない。今まででも、なあなあでやってきたのだ」
「今まででも？ あなたがたは今まで公然と不正な裁判を行ってきたのですか！ 承和の変でも不正な裁判を行い、無実の人たちを陥れたんですか！ ゼニですか？ 圧力ですか？ 公正な律令がありながら、何があなた方を悪の道へと走らせたのだっ！」
　善男の剣幕に、正躬王らはたじろいだ。いったんは引き下がり、出直してくることにした。

「まったく、とんでもないヤツが弁官局に入ってきたもんだ」
「それも、筋が通っていないことはない」
「バカなヤツだ。裁判官を、しかも自分の上司たちをまとめて訴えて勝ち目があると思っているのかっ」
「こうなったら律令の権威を招いて、こてんぱんにやっつけてやるっ」
　律令の権威とは、養老律令注釈書『令義解(りょうのぎげ)』編集にも関わり、当時最高の法律家とされた大判事(だいはんじ)・讃岐永直(さぬきのながなお)である。

　正躬王らは永直に弁護を依頼した。
　が、永直は乗り気でなかった。
「明らかにあなた方のほうが分が悪い」
「そこをあなたの法の知識で何とかしていただきたい」
「分かりました。善男とやらも相当の律令通のようですが、できる限りのことはいたしましょう」
　永直は承諾した。善男との論戦を買って出てしまった。

　ところが善男は、永直が正躬王らを弁護するために、自説をねじ曲げているところを見逃さなかった。
「あなたは自著の中でかくかくしかじかと書かれているではないか！ それとも律令の解釈は、裁かれる人によってコロコロ変わるのかっ！ 律令とは、万人に平等な不変の定義ではないのかっ！」
　永直は黙り込んだ。論破された。逃亡してしまった。
　こうして正躬王以下五人の弁官たちは私罪(しざい。公務に無関係の犯罪)を犯したとして贖銅(しょくどう。罰金として銅を収めること)を命じられ、全員更迭されたのである。

　翌年、善男は蔵人頭に任じられた。