5.伴善男の策謀 〜嵯峨源氏の存在 | ||||||||||||||
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読者の方はおかしなふうに思われるかもしれない。
「藤原良房を嫌いな伴善男が、どうしてその妹の藤原順子に取り入るのか?」
それは、手段を選ばない善男の戦法であろう。
(今の自分は良房と戦うには余りに非力すぎる。まずは敵の妹に取り入ってでも、自分や味方の地位を高めておく必要がある)
初めはそうだったが、善男が大納言に昇格した年に局面が変わった。
良房が咳逆病(かいぎゃくびょう)にかかり、重態になったのである。
「良房は死ぬ。放っておいても死ぬ。そんなヤツとの戦いを急ぐことはない」
良房はもう六十一歳。当時としてはかなりの老齢である。そんな彼が、五十二歳の源弘や四十九歳の源定も勝てなかった大病を克服できるとは、とても思えなかった。
「これからは弟の藤原良相の時代になる」
善男は確信した。
良相もまた、有能な政治家だが、彼は順子の言いなりである。彼女の言いなりということは、善男の言いなりも同然である。
「来るべき良相の時代は、このオレサマの時代ということだ。良相を太政大臣に飾り上げ、オレサマは左大臣として実権を握るのだっ!」
が、そうするためには邪魔者があった。
現左大臣・源信(まこと)以下、嵯峨源氏の人々である。
嵯峨源氏――。
嵯峨天皇の皇子のうち、臣籍降下された者およびその子孫のことである。
嵯峨天皇には歴代天皇中最多の五十人の子女があった。
あっちを見ても、こっちを見ても、いつもどこかで絶えず自分の子供が遊んでいる。笑っている。泣いている。たわむれている。
「ちと、つくりすぎたのう」
嵯峨天皇は将来の兄弟ケンカ、つまり皇位継承争いを避けるため、五十人中子女三十二人を臣籍降下し、「源(みなもと)姓」を与えた。
これが最初の源氏である。つまり嵯峨源氏は、後に源頼朝・源義経らを輩出する有名な清和源氏よりも歴史が古いのである。
それにしても、皇位候補者からふるい落とされた彼らは、不満だったであろう。いや、女子十五人は皇族でない男との結婚も可能になったので、かえって喜んでいたかもしれない。
「負けないぞ」
男子十七人はめげずに政界を目指した。
なんといっても彼らは、
「天皇の息子!」
という強力な武器を持っている。これ以上ないサラブレッドである。至高のブランドである。コネなんて、なんとでもなる。周りを見れば親類ばかり。親類になりたがるものばかり。父の名を出せば、「ははーっ」と、諸臣はみなひれ伏す。存在自体が水戸黄門の印籠(いんろう)なのである。能力なんて、あったってなくなったってどうだっていいのだ。
こうして源姓を賜った嵯峨天皇の皇子たちは、堰(せき)を切ったように政界へなだれ込み、雨後のタケノコのように昇進していった。
嵯峨天皇の皇子のうち、参議以上に昇進した人は以下の九名である。
● 参議以上に昇った嵯峨源氏一世 | ||||
官 職 | 位 階 | 名前 | 生没年 | 備 考 |
左大臣 | 正二位 | 信(まこと) | 810-868 | 北辺大臣。 |
左大臣 | 正二位 | 常(ときわ) | 812-854 | 東三条左大臣。 |
大納言 | 正三位 | 弘(ひろむ) | 812-863 | 広幡大納言。 |
参 議 | 正四位下 | 明(あきら) | 814-852 | 横川宰相入道。 |
大納言 | 正三位 | 定(さだむ) | 815-863 | 陽院大納言。 |
参 議 | 正四位下 | 生(いける) | 821-872 | 母は笠継子。 |
左大臣 | 従一位 | 融(とおる) | 822-895 | 河原左大臣。 |
参 議 | 従三位 | 勤(つとむ) | 824-881 | 西七条宰相。 |
善男の大納言昇進当時、閣僚に連なっていた嵯峨源氏は源信・源融・源生の三人である。咳逆病で死んだ源弘と源定も嵯峨源氏なので、前年は五人もいたわけだ。
「藤原氏が何代も掛かって築き上げてきたものに匹敵する大勢力を、嵯峨の帝は一代にして築き上げてしまった。夜の嵯峨の帝、恐るべし――」
嵯峨源氏の中には、父帝に勝るとも劣らないツワモノのもいたことであろう。
「嵯峨源氏は脅威だ。能力はともかく、繁殖力が脅威だ。このままほうっておけば、他氏は絶滅だ。良房も良相も、きっと苦々しく思っているはずだ。今のうちに葬り去っておかなければ、いずれこの国は嵯峨源氏によって埋め尽くされてしまうであろう、と――」
善男は策を弄(ろう)した。
またも告発という手を使った。匿名で投書を行ったのである。
「源信・源融・源勤(つとむ)兄弟らが謀反を起こそうとしている」
投書を受け取ったのは右大臣・良相。
「まさか。左大臣に限ってそんなことは――」
良相は信じなかった。
信は風雅の人である。温和で詩歌や書画を好む人である。狩猟という趣味も持っていたが。
良相は善男と相談した。
「私も信じたくはありませんが――」
善男は断っておきながら、こう続けた。
「あるいは信らは狩猟にかこつけて、武芸を磨いているのかも知れません。徒党を組んで悪事の密談を練っているのかも知れません」
良相は念のため、信の武力をそいだ。信の部下のうち武芸に優れた者を地方官に任じ、引き離したのである。
また、集会を制限する法も定めた。