4.毒食らわばシャモジまで

ホーム>バックナンバー2022>令和四年5月号(通算247号)降伏味 平忠常の乱4.毒食らわばシャモジまで

ウクライナ戦争の行方
1.火のないところに煙立つ
2.心中より陳情
3.急かなくとも事を仕損ずる
4.毒食らわばシャモジまで

 長元四年(1031)春、新追討使・源頼信が東国へ向かった。
 頼信は前々年に甲斐に任命されていたため、まずは任地へお国入りしたのである。
 頼信平忠常の子・一法師を伴っていた。
「賊将忠常はただちに官軍に投降せよ! さもなくば、息子の命はない!」

 脅迫された忠常は、即座に甲斐まで出向いて投降した。
 出家して常安と改名し、息子二人と郎党三人を伴ってである。
 四月、頼信は京へ忠常投降と五月に上洛する旨を報告した。
「もう終わったんか」
「瞬殺やな」
「平直方とはえらい違いや」
「ちと、できすぎやないかい?」
「とりあえず、褒めてつかわせ」
 藤原頼通勘解由使長官・藤原資業
(すけなり)を下向させて頼信に褒状を贈った。

 しかし、五月になると忠常は病気になり、月末には重病になってしまった。
 頼信が気遣った。
「上洛は病気を治してからにしてはどうか?」
「いえ、大丈夫です。行きましょう」

 六月六日、美濃の野上(のがみ。岐阜県関ケ原町)に着いた頃には忠常は寝たきりになってしまっていた。
 そのため、頼信自ら食事を給仕してくれた。
「野上の村人から食物の差し入れがあった。食べるがよい」
 忠常は礼を言った。
「私のような謀反人に申し訳ございません」
「俺はおぬしが謀反人とは思っていない」
「元気だけが取り柄だったのに、どうしてこんな急に病気になってしまったのでしょうか?」
「おぬしが病気になったのには理由がある」
「バチでも当たったんでしょうか?」
「いや、毒に当たったのだ」
「え? ――盛られたってことですか?」
「ああ」
「だ、誰に?」
「そうだ! 冥土の土産に教えておこう。前の前の安房・平維忠を焼き殺させ、おぬしに罪をなすりつけたのは俺だ」
「はあ? ――ええっ! な、何のために?」
「おぬしをあおって反乱を起こさせるために」
「!」
「その反乱を俺が鎮圧して出世するために」
「!!」
「俺の本心を知ってしまったからには生かしてはおけぬ。初めからおぬしを生かして京に連れて行こうとは思っていなかった。生首にしてしまったほうが、いかにも戦をしてきたように見える」
「!!!」
「生首になれーっ!」
「むごごご!」
 頼信忠常の口に、ご飯と一緒にしゃもじを押し込んだ。
「うー! うー!」
 忠常は窒息して絶命した。

「どうしました?」
 頼信の子・源頼義が物音に気づいて駆けつけてきた。
 頼信はウソをついた。
「こいつ、しゃもじを飲み込んで死によった。首は斬って京へ持っていくが、胴体は手厚く弔ってやれ」
 野上に残る「しゃもじ塚」が忠常の墓だという。享年不明。

 六月十六日、上洛した頼信は河原に忠常の首をさらしたが、
「降伏した者の首をさらすんじゃねぇー!」
 藤原教通の抗議によって中止され、首は息子たちに返された。

 翌長元五年(1032)、源頼信平忠常討伐の恩賞として美濃に栄転した。

[2022年4月末日執筆]
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※ 史実では平忠常の死因は病死とされていますが、それまで元気に反乱を起こしていた者が投降したとたん発病するのは不自然と思われます。
※ 「しゃもじ塚」の伝承では、忠常はご飯としゃもじを一緒に飲み込んで自殺したとみられますが、これも不自然と思われます。
※ 最も合点がいくのは、源頼信による殺害でしょう。
※ この物語では、乱自体も頼信が仕組んだことにしました。
※ 群馬県榛東村には平常将を祭った常将神社があります。

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