1.炎立つ

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平 清盛 PROFILE
【生没年】 1118-1181
【別 名】 六波羅殿・六波羅入道・平相国
・平禅門・清蓮・静海
【出 身】 京都?
【職 業】 武将・公卿
【役 職】 左兵衛佐→中務大輔→肥後守→安芸守
→播磨守→大宰大弐
→参議・右衛門督・検非違使別当
→大納言・兵部卿→内大臣→太政大臣
【位 階】 従五位下→従四位下→正四位下→正三位
→従二位→従一位
【祖 父】 平正盛or後三条天皇
【 父 】 平忠盛or白河天皇
【叔 父】 平忠正
【 母 】 白河院の女房
【 妻 】 平時子・高階基章女・常盤御前・厳島内侍ら
【 子 】 平重盛・基盛・宗盛・知盛・重衡
・知度・清房・清定(実父は中原師元)
・清邦(実父は藤原邦綱)・覚隆
・女(藤原兼雅室)・徳子(高倉天皇中宮)
・盛子(藤原基実室)・女(藤原隆房室)
・女(藤原基通室)・女(藤原信隆室)
・安芸御子姫君・廊御方・女
【兄 弟】 平家盛・経盛・教盛・頼盛・忠度
・女(藤原顕時室)・女(藤原隆教室)
【 孫 】 安徳天皇・平維盛ら
【主 君】 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇
→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇
【仇 敵】 源義朝・源頼朝・後白河法皇ら
【墓 地】 六波羅蜜寺(京都市東山区)
・祗王寺(京都市右京区)ほか

 おごる平家の栄華は傾きかけていた。
 治承四年(1180)四月、自称最勝親王・以仁王
(「天皇家系図」参照)令旨によって諸国の源氏が決起、十月、伊豆で挙兵して相模鎌倉(神奈川県鎌倉市)に入った清和源氏のホープ・源頼朝(「清和源氏系図」参照)の追討に向かった平家の御曹司(おんぞうし)・平維盛(たいらのこれもり。「桓武平氏系図」参照)が、駿河富士川(ふじかわ。静岡県富士市富士川町)で大敗して逃げ帰ってきたのである。
 平家の大親分・平清盛は、近江勢多
(せた。瀬田。滋賀県大津市)まで帰ってきた孫・維盛からの報告を受けて激怒した。
「お前は追討使の任を承ったとき、君
(安徳天皇御年三しゃい)に命を奉ったはずではないか!負けておめおめ帰ってくるとは何事か!戦って敵にムクロをさらしたほうがマシではないか!かつてお前ほどひどい負け方をした追討使がいようか?ああ、腹が立つ!お前は不覚の恥、尾籠(びろう)の恥を歴史に刻みつけたのじゃ!都へ入ることはまかりならぬぞ!」
 維盛はしょげた。
「じいちゃん、そんなに怒らなくても〜。頼朝軍は二十万騎の大軍なんだよ〜。それに比べて追討軍は三万騎
(あるいは五千とも五万とも)ぽっち。初めから勝てるわけないでしょ〜が〜」
「言い訳無用!とにかく都へ入るのは絶対に許さーん!」
「いやだねー」
 維盛は聞かなかった。こっそり入京し、検非違使
(けびいし)・藤原忠綱(ただつな)宅に隠れたのである。

「情けなや!」
 維盛が都に潜んでいることを知った清盛は嘆いた。
 そこへ、
源頼朝遠江以東の東国を制圧しました!」
 と、報告があった。
 清盛は笑った。
「フッフッ」
 愉快だから笑っているのではなかった。
「わしはかつて頼朝の命を救ってやったことがあった……」
 平治元年(1159)の平治の乱後、清盛は自分に歯向かった頼朝を処刑しようとしたが、継母・池禅尼
(いけのぜんに)に、
『御覧なさい、この頼朝の容姿を。亡き家盛
(いえもり。早世した清盛の異母弟)ソックリではありませんか!殺してはなりませぬ!』
 と、懇願されたため、やむを得ず命を助け、伊豆へ島流しにしてやったのであった。
「それが今や源氏の総大将に祭り上げられ、わしに刃を向けてきよった……。キーッ!」
 清盛の怒りはメラメラと燃え上がり、怒髪天をついて
(坊主なので髪はないが……)爆発炎上した。
「おのれ頼朝!恩を仇
(あだ)で返した鬼畜外道が、いかなるむごたらしき終末を迎えるものか、とくと味わわせてやろうっ!」

 清盛は軍事のみに専念するため、政事を捨てた。
 政事を三男・平宗盛にゆだね、幽閉していた日本一の大天狗
(おおてんぐ)後白河法皇も復権させることにしたのである。

 十二月、清盛近江へ四男・平知盛を、伊賀に孫・平資盛(すけもり)を、伊勢に側近・藤原清綱(きよつな)を派遣して畿内の反対勢力の各個撃破に取り掛かった。
 中でも強力だったのは近江園城寺
(滋賀県大津市)延暦寺(滋賀県大津市京都市左京区)の一部宗徒であったが、月の半ばまでに何とか平定した。
「次は南都
(なんと。奈良)だ」
 十二月二十五日、五男・平重衡
(しげひら)を総大将とした官軍が南都へ向けて出陣、興福寺(奈良県奈良市)東大寺(奈良市)宗徒は奈良坂(京都府木津川市奈良県奈良市と般若寺(奈良県奈良市に陣地を築いて防いだが、二十八日に突破され、興福寺東大寺の堂宇は炎上、灰燼(かいじん)に帰したのである。聖武天皇が造立したあの有名な大仏もこのときに溶け落ちたのであった。

 これには都の人々は震え上がった。
「いくらなんでもやりすぎや」
「仏を焼き、経を燃やし、僧を殺すとはこれ以上ない悪行!」
「入道大相国
(にゅうどうだいしょうこく。清盛)さまには今に仏罰が当たるに違いない」

 で、そのとおりになった。
 治承五年(1181)二月、清盛はにわかに発病したのである。

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