107.高齢味 基礎用語集

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安徳天皇(あんとくてんのう)←言仁親王(ことひとしんのう)
 (1178-1185) 伝八十一代天皇(在位1180-1185)。高倉(たかくら)天皇の皇子。母は建礼門院(けんれいもんいん)。二歳で即位するが、平家とともに都を離れ、1185壇ノ浦(だんのうら)の戦で入水した。

厳島神社(いつくしまじんじゃ)
 広島県廿日市市所在。安芸国の一宮。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)+田心姫(たごりひめ)命+湍津姫(たぎつひめ)命=宗像(むなかた)三女神。平清盛が安芸守に就任して崇敬して以降、平氏の氏神のようになって繁栄した。1241再建の社殿や「平家納経」などは国宝。

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市比叡山所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山(ひえいざん)。785最澄(さいちょう)が比叡山に入り、788一乗止観院(いちじょうしかんいん比叡山寺)を立てたのが起源。最澄は唐から帰国後、この地で天台宗を開き、その死後「延暦寺」の勅願を賜り、平安時代以後は奈良の南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれ、日本の仏教教学の中心となった。

園城寺(おんじょうじ)=三井寺(みいでら)
 滋賀県大津市所在。天台宗寺門派(てんだいしゅうじもんは。天台寺門宗)の総本山。山号長等山。大友皇子(おおとものおうじ)の子・与多王(よたおう)の創建と伝え、859円珍(えんちん)が再興、山門派(さんもんは)の延暦寺(えんりゃくじ)と天台宗の正統を争った。国宝不動明王像(黄不動)など、多くの寺宝が伝わる。

外戚(がいせき)
 母方の親族のこと。蘇我(そが)・藤原(ふじわら)氏・平(たいら・へい)氏は天皇家の、北条(ほうじょう)氏は源(みなもと・げん)氏の、安達(あだち)氏は北条氏の、日野(ひの)氏は足利(あしかが)氏の外戚として権力を握った。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

桓武平氏(かんむへいし)≦平氏・平家(へいけ)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら・かずらはら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、北条(ほうじょう)・三浦(みうら)・梶原(かじわら)・大庭(おおば)・千葉(ちば)・土肥(どひ)・長尾(ながお)・伊勢(いせ)氏など多くの武家を輩出した。本来は藤原氏である織田氏なども桓武平氏を称している。⇒桓武平氏系図

後白河天皇(ごしらかわてんのう)→後白河上皇(じょうこう)→後白河法皇(ほうおう)
 (1127-1192) 伝七十七代天皇(在位1155-1158。院政1158-1179,1181-1192)。名は雅仁(まさひと)。鳥羽(とば)天皇の皇子。母は待賢門院(たいけんもんいん)。1155弟・近衛(このえ)天皇没後に父に推されて即位するが、兄・崇徳(すとく)上皇と対立、1156父の死後の保元(ほうげん)の乱で兄を破って配流し、1158皇子・二条(にじょう)天皇に譲位して院政を開始、1159平治(へいじ)の乱を経て平清盛(たいらのきよもり)と対立、1179幽閉されて院政を止めさせられるが、1181清盛没後に院政を再開、源義仲(みなもとのよしなか)、次いで源頼朝(よりとも)と結んで平氏を倒させ、歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編集、「年中行事絵巻」を作らせた。

興福寺(こうふくじ)
 奈良県奈良市所在。法相宗(ほっそうしゅう)大本山。藤原氏の氏寺。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が建立した山階(やましな)寺をその子・不比等(ふひと)が奈良に移したもの。平安時代以降は北嶺(延暦寺)と並んで日本の仏教教学の中心となり、中世には大和国守護を兼ねた。

聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇=聖武太上天皇(だじょうてんのう・だいじょうてんのう)
 (701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
暴発味辞任味 

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図

平 清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。高齢味

平 徳子(たいらのとくこ)→建礼門院(けんれいもんいん)
 (1155-1213) 高倉天皇中宮。清盛(きよもり)
の次女。母は平時子(ときこ。二位尼)。1171高倉天皇の女御となり、1172中宮に昇格、1178安徳天皇を生み、1181院号宣下、1185壇ノ浦の戦で平家が敗れて入水するが、助けられて京都に送られて出家、大原の寂光院(じゃっこういん)に住んだ。

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい)
 1185源義経(みなもとのよしつね)・源範頼(のりより)ら源氏と平宗盛(たいらのむねもり)ら平氏との最終決戦。屋島(やしま)の戦で敗れた平氏は長門の彦島で体制を整え、壇ノ浦(山口県下関市)で源氏を迎え撃ったが壊滅、宗盛は捕らえられ、安徳(あんとく)天皇・平知盛(とももり)ら一門の多くが戦死・入水し、平氏は滅亡した。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。もとはヤマト政権の大王。七世紀から天皇に移行。初代天皇(大王)は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗大本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。大勧進行基(ぎょうき)。開基良弁(ろうべん)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。

鳥羽法皇(とばほうおう)←鳥羽上皇(じょうこう)←鳥羽天皇←宗仁親王(むねひとしんのう)
 (1103-1156) 伝七十四代天皇(在位1107-1123。院政1129-1156)。堀河(ほりかわ)天皇の第一皇子。母は藤原実季(ふじわらのさねすえ)の娘・苡子(いし)。1103即位し、1123祖父・白河(しらかわ)法皇の命によって崇徳(すとく)天皇に譲位、1118最勝寺(さいしょうじ)を建立し、1129法皇没後に院政を開始、祖父に避けられていた藤原忠実(ふじわらのただざね)を再登用し、1141近衛天皇を擁立、1155その没後は白河天皇を擁して崇徳上皇と対立し、1156の保元(ほうげん)の乱の原因を作った。
泥酔味

南都・北嶺(なんと・ほくれい)
 比叡山(ひえいざん。滋賀県大津市)の延暦寺(えんりゃくじ)と奈良(奈良県奈良市)の仏教勢力、特に興福寺(こうふくじ)のこと。延暦寺と興福寺は平安時代以降、強力な僧兵(そうへい)を抱え、朝廷に対してしばしば強訴(ごうそ)を行った。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

比叡山(ひえいざん)=叡山(えいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

平家納経(へいけのうきょう)
 1164平清盛(たいらのきよもり)らが一門の繁栄を願って厳島神社に納めた装飾経。経典三十二巻+願文一巻。平安〜鎌倉時代に流行した装飾経の中で最も豪華なもの。国宝。

平治の乱(へいじのらん)
 1159院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と源氏の当主・源頼朝(みなもとのよしとも)らが院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)や平氏の当主・平清盛(たいらのきよもり)らに対して起こした反乱。信頼・義朝らは清盛の留守中に後白河(ごしらかわ)法皇の三条殿を急襲、信西を討って朝廷の実権を握るが、戻ってきた清盛に六条河原で敗れ、信頼は処刑され、義朝は東国へ落ち延びる途中で殺された。

保元の乱(ほうげんのらん・ほげんのらん)
 1156上皇派(崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正ら)と天皇派(後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛ら)が京都で戦った内乱。戦いは天皇派の夜襲が成功し、一日で決着。頼長は敗死し、為義・忠正らは処刑され、崇徳上皇は讃岐へ流された。

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)らと戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦で大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじかわ)の戦で平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

以仁王(もちひとおう)=三条宮(さんじょうのみや)=高倉宮(たかくらのみや)
 (1151-1180) 後白河(ごしらかわ)天皇の皇子。八条院(はちじょういん)の猷子として皇位継承者に目されるが、1180安徳天皇即位で破綻(はたん)、1180源頼政(みなもとのよりまさ)と平家打倒を図り、以仁王の令旨を発して源氏諸将に挙兵を呼びかけるも発覚、平知盛(とももり)・重衡(しげひら)らに宇治(うじ。京都府宇治市)の平等院(びょうどういん)で敗死した。

令旨(りょうじ)
 皇后・皇太后・皇太子・親王・王らの意思を伝える命令文書。1180以仁王(もちひとおう)が出した以仁王の令旨が有名。

盧舎那仏(るしゃなぶつ)=毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)≧東大寺大仏(とうだいじだいぶつ)
 蓮華蔵(れんげぞう)世界に住み、全宇宙を照らす仏。東大寺の盧舎那仏像は743聖武(しょうむ)天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)で造立を発願し、行基(ぎょうき)を勧進に任命するが一時中断、747平城京で再開し、造仏長官・国中公麻呂(くになかのきみまろ)らが造立、752菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼師に任じて開眼法要を行った。1180平清盛(たいらのきよもり)の命を受けた平重衡(しげひら)に、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、足や台座などは創建当初のもの。

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