1.小手指原の戦(1333.5/11)

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紛争に明け暮れる世界
1.小手指原の戦(1333.5/11)
2.久米川の戦(1333.5/12)
3.第一次分倍河原の戦(1333.5/15)
4.第二次分倍河原の戦(1333.5/16)
新田義貞 PROFILE
【生没年】 1301or1300-1338
【別 名】 小太郎
【出 身】 上野国に新田荘(群馬県太田市)
【職 業】 武将
【役 職】 武者所頭人・越後守・播磨守
・左中将・右衛門佐・治部大輔
【 父 】 新田朝氏
【 妻 】 安東氏・一条経尹女(勾当内侍)ら
【 子 】 新田義顕・義興・義宗ら
【兄 弟】 脇屋義助ら
【部 下】 船田義昌・大館宗氏ら
【主 君】 北条高時→後醍醐天皇
【墓 地】 安養寺(群馬県太田市)
・称念寺(福井県坂井市)
・金竜寺(茨城県竜ヶ崎市)
【霊 地】 藤島神社(福井県福井市)

 新田義貞の挙兵!(「進撃味」参照)
 衝撃は、まず、上野守護代・長崎泰光
(ながさきやすみつ)のもとに届けられた。
「何!義貞が謀反!」
 上野得宗領である。
 北条高時の一族某
(金沢親連とも)鎌倉に在府して上野守護を務めていたため、泰光は在地役人のトップであった。
 当然、義貞が地盤とする新田荘
(にったのしょう。群馬県太田市)地頭職得宗家が持っていた。
 高時は世良田
(せらだ)にある荘内最大の寺院・長楽寺(ちょうらくじ)の住職も兼任していたのである。
 高時義貞が黒沼伴清
(くろぬまともきよ)を殺害した後、
「新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する」
 という文書を発給したが、おかしなものである。
 自分のものを自分の意思で差し出せば寄進というが、他人のものを自分の意思で自分のものにすることは寄進とは言わない。
「新田の怒りは分からないでもない。得宗家は長年に渡って搾取し続けてきたからのう。だからと言って謀反は反則だ。ただちに国内から新田討伐の軍を集めよ!」
「無理です」
「なぜだ?」
「国内の武士たちは、みなみな新田の軍門に降りました」
「それではやむをえん」
「撤退ですか?」
「撤退ではない!鎌倉に報告に行くのだ!」
 泰光は鎌倉へ逃走した。

 一方、わずか百五十騎で決起した義貞であったが、進撃するにつれて兵が集まってきた。
「越後方面から里見義胤
(さとみよしたね)・鳥山亮氏(とりやますけうじ)・田中経村(たなかつねむら)・田中経氏(つねうじ)・大井田経隆(おおいだつねたか)・羽川刑部(はねかわぎょうぶ)らが参上しました!その数二千騎!」
甲斐信濃の源氏たちも参上しました!総数五千騎!」
足利高氏殿の御子息・千寿王
(せんじゅおう。後の義詮。「野合味」「決着味」参照)殿以下二百騎も!」
 その後も続々と兵はふくらみ、武蔵に入ったころには、二十万七千騎という、とてつもない大軍になっていたという。
 義貞は歓喜した。
「八幡大菩薩
(はちまんだいぼさつ)の御加護だ!我ら源氏に八幡大神の御後援あり!」

 早馬が鎌倉に飛んだ。
「武蔵野
(むさしの。埼玉県南部+東京都中西部)が大変なことになっております」
 高時がいぶかしがった。
「どうなっておるというのだ?」
「反乱軍の人馬でギュウギュウ詰めになっております」
「プッ!」
 高時は吹き出してしまった。
「武蔵野は東西南北八百里あるという。そのような広大な場所でのギュウギュウ詰めとはいかなるほどの大軍か?ありえない!唐
(から。中国)・天竺(てんじく。インド)からでも攻めてきたとでも申すのか!わはは!」
「ウソではございませぬ。武蔵野では余りの人込みの多さに、鳥も飛べず、獣も隠れられず、月光の下でキラ星のごとく鎧
(よろい)の金具が光り、風が吹くたびにススキの穂のように旗指物がなびいておりまする」
「ぽい!ぽい!ぽい!ますますウソっぽいっ!」
 内管領長崎高資
が勧めた。
「いずれにせよ、遠くの敵より近くの敵が優先。軍議を」
「うむ」

 五月十日、幕府首脳は討伐軍を派遣した。
「桜田貞国
(さくらださだくに。北条貞国)・長崎高重(ながさきたかしげ。「操縦味」参照)・長崎泰光・加治家貞(かじいえさだ)ら六万騎は入間川(いるまがわ)へ向かえ。金沢貞将(かねざわさだまさ。北条貞将)ら五万騎は下河辺(埼玉県北葛飾郡)へ回って防衛せよ」
「御意!」
「了解!」

現在の小手指原周辺(埼玉県所沢市)

 五月十一日、新田軍は幕府側の桜田軍と入間川にある小手指原を挟んで対峙(たいじ)した。
 義貞は前日から川べりにある古墳に陣取っていた。
 彼がここに源氏の白旗を掲げたため、後世「白旗塚」と呼ばれる小丘である。
「存外敵は少ないな」
 見渡した義貞に、船田義昌
(ふなだよしまさ)が説明した。
「対岸に見えるのは桜田貞国率いる六万騎」
 脇屋義助
(わきやよしすけ)は強がった。
「平家
(幕府軍)はわずか六万騎!源氏(新田軍)は二十万七千騎!三倍以上ではないか!幕府は我々をなめているのか!」
「俺たちの実力を見誤ったのだ」
 義貞はニヤリとし、全軍に突撃命令を出した。
「敵は混乱の渦中にある!考えるいとまを与えるな!敵が援軍を呼ぶ前に、一気に川を渡って押しつぶせー!」
「おおー!」
 バシャ、バシャ、バシャバシャー!
 新田軍は怒涛
(どとう)のごとく川を渡り始めた。

 対岸の幕府軍は義貞のもくろみ通りビビッていた。
「あの雲霞
(うんか)みたいに見えるのは全部反乱軍か?」
「ウッソ〜!敵、多すぎ〜!」
「それに比べて我が軍の少ないことときたら」
「ゲゲッ!攻め寄せてきた!」
「やばいよやばいよ〜!」
 逃げ腰の兵たちを貞国がはげました。
「下河辺へ向かった金沢軍が加勢に来てくれるかもしれぬ!鎌倉にも援軍を催促した!幕府は反乱軍などには負けはせぬ!その証拠に承久の乱
(「栄光味」参照)でも朝廷軍に勝ったではないか!返り討ちにしてやるのだー!」
「おおー!」
 気を取り直して幕府軍は迎え撃った。
 金沢軍は来なかったが、大軍相手に一進一退の攻防を繰り広げた。
 日が暮れても決着はつかず、両軍三里ずつ撤退することで明朝までの停戦とした。
 新田軍は入間川を戻り渡り、幕府軍は久米川
(くめがわ。東京都東村山市)まで退いたのである。
 両軍の死者は新田軍が三百余騎、幕府軍が五百騎と伝えられている。

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