2.京鎌冷戦 〜 足利持氏憤々

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クジと談合
1.クジ将軍 〜 足利義教登場
2.京鎌冷戦 〜 足利持氏憤々
3.関東分裂 〜 上杉憲実退去
4.両軍激突 〜 激闘永享の乱
5.鎌倉無情 〜 鎌倉公方最期

 足利義教室町幕府六代将軍就任の報は、ただちに鎌倉にもたらされた。
 足利持氏は怒り狂った。
「新将軍は青蓮院義円!? なぜだ! なぜ、余という猶子がいるのに、わざわざボーズを還俗させて国政を担わせるのかっ!」
 関東管領上杉憲実
(「上杉氏系図」参照)が答えた。
「新将軍は三宝院満済の進言で、大御所の弟四人の中から、な、なっ、なんとクジで選ばれたそうです」
 憲実上野伊豆守護で、下野足利
(あしかが。栃木県足利市)足利学校を再興した才人である。
 持氏は納得いかなかった。
「クジィィ〜! クソ満済っ! 天下の将軍をそんなバカげた方法で選びやがって! しかも候補の中にどうして余の名前が入っていないのか! 憲実、抗議の上洛だー!」
「なりませぬ! 幕府は後南朝
(南朝の残党。小倉宮・北畠満雅ら)勢力も我々がそそのかしていると勘違いしているのですぞ! ただでさえにらまれている今、そんなことをすればますます疑われることでしょう。しかも新将軍はことのほか短気と聞いております。一刻も早く新将軍就任のお祝いの使者をお遣わしください」
「嫌なこった! 余は新将軍など認めぬし、こびもせぬ! 新参者の将軍のほうこそ、この鎌倉にあいさつに来やがれ!」

足利持氏 PROFILE
【生没年】 1398-1439
【別 名】 幸王丸
【出 身】 鎌倉(神奈川県鎌倉市)
【本 拠】 鎌倉御所(神奈川県鎌倉市)
【職 業】 武将
【役 職】 鎌倉公方(1409-1439)
・左馬頭・左兵衛督
【 父 】 足利満兼(氏満の子)
【 子 】 足利賢王丸(義久)・安王丸
・春王丸・永寿王丸(成氏)ら
【叔 父】 足利満隆・満直・満貞ら
【兄 弟】 足利持仲
【部 下】 上杉憲実・簗田満助・上杉憲直
・一色直兼・三浦時高・千葉胤直ら
【仇 敵】 足利義教ら
【墓 地】 別願寺(神奈川県鎌倉市)

 正長二年(1429)九月、年号が「永享(えいきょう)」と改元されたが、持氏はしばらくこれを用いなかった。
「室町が幕府の本家ならば、鎌倉は幕府の元祖である。しかも武勇も才能もなく、運だけで将軍になった『還俗将軍』なんぞに鎌倉公方が服従する筋合いがない。悔しければ攻めてきやがれってんだ、バーカ!」

 持氏の態度に義教は黙っていなかった。
 持氏も高飛車だが、義教はもっと高圧的であった。
鎌倉の田舎公方が従わぬなら、遠慮なく討伐するまでじゃ」
「いけませぬ!」
 満済らが必死で止めた。
鎌倉府は幕府の単なる一地方機関ではございませぬ! 鎌倉を敵に回すということは、東国すべてを敵に回すということです。しかも関東管領上杉憲実は大傑物。これを敵に回してはなりませぬ!」
「ぬぬぬ……」
 義教持氏討伐をあきらめた。
「富士遊覧」と称して駿河まで赴き、牽制
(けんせい)しただけであった。
 義教持氏も、側近たちの必死の制止によってかろうじて暴発を免れていたのである。

 ところが、年を経るにつれ義教を封印していたタガが外れてきた。
 永享五年(1433)に元管領
(永享元年退任)畠山満家が六十二歳で、前管領(永享四年退任)斯波義淳(しばよしあつ)が三十七歳で没したのである。
 さらに永享七年(1435)には、三宝院満済が五十八歳で、山名時煕も六十九歳で死んでしまった。
 義教は伸びをした。
「これで余は自由じゃ。もはや余を止められる者は誰もおらぬ。これからの余は、思うがままに『正道』を行うのじゃ! 余をアホ呼ばわりするヤツは許さぬ。これからは容赦
(ようしゃ)なく天誅(てんちゅう)を食らわす! 後世の歴史家に聞いてみよ! 余は室町幕府中興の英主となっているであろう!」
 新管領
(永享四年就任)細川持之(ほそかわもちゆき。「細川氏系図」参照)は拒まなかった。
「御存分にどうぞ」
 理由は簡単。反抗する者には、もれなく領地や生命の没収が待っているからであった。

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