3.関東分裂 〜 上杉憲実退去

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クジと談合
1.クジ将軍 〜 足利義教登場
2.京鎌冷戦 〜 足利持氏憤々
3.関東分裂 〜 上杉憲実退去
4.両軍激突 〜 激闘永享の乱
5.鎌倉無情 〜 鎌倉公方最期

 一方、足利持氏もあいかわらず高飛車であった。
 陸奥篠山
(ささやま。福島県郡山市。または稲村)御所・足利満貞(みつさだ)常陸半国守護・山入与義(やまいりともよし)下野の豪族・那須氏資(なすうじすけ)ら、従わぬ者に片っ端から軍勢を差し向けていた。
 上杉憲実はそのたびに反発した。
「おやめください! こんなことは鎌倉のためになりませぬ!」
 持氏はすでに憲実の言うことを聞かなくなっていた。
 駿河守護今川氏の家督相続
(永享の内訌)に介入し、信濃の紛争にも出兵しようとしたのである。
 憲実は訴えた。
信濃はいけません! 鎌倉府の領国は関東諸国と伊豆甲斐陸奥出羽のみです。信濃守護と戦うことは、幕府に対して公然と歯向かうことになるのですぞ!」
 当時、信濃では、信濃守護・小笠原政康
(おがさわらまさやす)が同国豪族・村上頼清(むらかみよりきよ)と争っていた。持氏は頼清に助勢するため、配下の上杉憲直(のりなお)や一色直兼(いっしきなおかね。「一色氏系図」参照)らを派兵しようとしたのである。
信濃だけはいけません!」
 憲実のあまりの剣幕に、今度ばかりは持氏も折れた。
「分かった。信濃出兵は中止だ」

 が、信濃方面軍は解散しなかった。
 こんなうわさがまことしやかにささやかれ始めた。
憲実様に仕事を奪われた上杉憲直・一色直兼両名が怒っているそうな」
「両名は関東管領の命をねらっているそうな」
「軍勢を解散しないのは、管領に戦を仕掛けるためだそうな」

 身の危険を感じた憲実は、相模藤沢(さがみふじさわ。神奈川県藤沢市)に逃れた。
 驚いた持氏憲実を追いかけて説得した。
「だから信濃出兵は中止だって言っているじゃないか〜。逃げないでくれよ〜」
「ではなぜ軍を解散しないのですか? 私を襲うためではないのですか?」
「そんなことするわけないじゃないか! 誰がそんなことを言ったのか?」
「そういううわさが飛び交っております」
「わかったわかった。憲直と直兼は処罰する。それならいいであろう」  
 こうして憲直と直兼は追放され、憲実鎌倉に戻された。

 永享十年(1438)六月、持氏の長男・賢王丸(けんおうまる)が元服することになった。
 元服式を控え、憲実が提案した。
「室町への使者はわが弟・重方
(しげかた)をお遣わしください」
 持氏は聞いた。
「なぜ室町なんぞに使者を送るのか?」
「初代足利基氏公以来、歴代の鎌倉公方は時の将軍の御名から一字ずつ漢字をいただいております。今回もそれをいただくための使者をお遣わしください」
 そうであった。
 初代基氏の「氏」、二代氏満
(うじみつ)・三代満兼(みつかね)の「満」、四代持氏の「持」の字は、それぞれ初代将軍尊氏・三代将軍義満・四代将軍義持からいただいたものなのである(「将軍一覧」参照)

 しかし持氏は言った。
「今回は名前をもらいに行く必要はない。賢王丸の元服名はすでに決めてある。『義久
(よしひさ)』だ」
「『義久』!」
 憲実は仰天した。
「義」の字は清和源氏の直系・将軍家が代々継承する漢字で、先述のように鎌倉公方が継承した前例はなかった。
 憲実は叫んだ。
「おやめください! 鎌倉公方将軍ではございませぬっ!」
「黙れ、憲実鎌倉公方は正真正銘源氏の直系だ! 西の将軍と双璧をなす、清和源氏の直系の当主なのだ! 将軍が名乗ってよいものを鎌倉公方が名乗って悪いことはない!」
「しかし……」
 持氏憲実をさえぎって言い継いだ。
「もう一つ、そちに伝えたいことがある」
「なんでしょうか?」
「たいしたことではない。めでたい席だ。両名の罪を許して元服式に出席させることにした」
「両名とは……?」
 憲実は嫌な予感がした。
 持氏は両名を呼んだ。
 両名はニタニタと出てきた。
 案の定、憲直と直兼であった。
 二人は憲実を見ると、皮肉たっぷりに言った。
管領様、お久しぶりでございます〜」
「あなた様のおかげさまでしばらくおヒマをいただいておりました〜」
 二人の目は殺気立っていた。
(タダじゃすまないよ〜)
(ぶっ殺してやるからね〜)
 明らかにそう訴えかけていた。
 憲実は恐怖した。退席しながら言った。
「ごっ、御勝手になされよっ」

 足利義久元服の日、憲実は出席しなかった。
 持氏は不思議がった。
「どうして憲実は来ないのか?」
 憲直と直兼はかわるがわる言った。
「謀反でも考えているのでは?」
「早急に討伐なさるべきかと」
「フッ、バカな」
 持氏は本気にしなかったが、その欠席は責めた。
「とにかく、主君の嫡子の元服式に出席しないとは何事だっ」

 また、うわさが飛び交った。
鎌倉殿はお怒りだそうな」
「放生会
(八月十六日)の翌日に管領退治の兵を挙げるそうな」
「憲直と直兼がヨダレを垂らしながら喜んで攻めて来るそうな」

 憲実は困った。思い悩んだ。
「ああ! 拙者はどうすればいいのじゃ! 持氏公は少々短気だが、悪い方ではない。しかし取り巻きが悪すぎる。このままでは拙者も禅秀
(ぜんしゅう)の二の舞かも知れぬ」
 応永二十三年(1416)、時の前関東管領・上杉禅秀
(氏憲)持氏に反旗、鎌倉を占拠したが、幕府の援軍もあり、結局その翌年に巻き返されて討ち取られていた(上杉禅秀の乱)

 重臣・長尾忠政(ながおただまさ)が勧めた。
「殿、ここにいては危険です。こうなったらもう幕府につくしかありません」
「主君を裏切れと申すのか! 君臣の道にそむけと申すのか!」
「いいえ、裏切るのではありません。幕府の力を借り、持氏公に真の忠臣は誰なのか知らしめるだけです。幕府は殿の離反を待っています。殿さえ離反すれば、いつでも鎌倉を攻撃できる態勢は整っているのです。さあ、殿、御決断を! 奸臣
(かんしん)を討ち、持氏公を目覚めさせる方法はこのほかにありません!」
「分かった。君の過ちを正すことも臣の務めであったな」
「その通りです」

 八月十四日、憲実鎌倉を脱出した。
 上野へ帰り、上野白井城
(しろい・しらいじょう。群馬県渋川市)に引きこもったのである(同県藤岡市の平井城にこもったともいう)。 

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