4.両軍激突 〜 激闘永享の乱 | ||||||||||||||
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「関東管領上杉憲実殿離反! 上野白井城へ退去しました!」
一報は室町へ飛んだ。
足利義教は踊り上がって喜んだ。
「持氏はアホじゃ! 余は勝った! 憲実のいない鎌倉府など、赤子の手をひねるようなものじゃ!」
義教は時の帝・後花園天皇(ごはなぞのてんのう)に綸旨(りんじ。天皇の命令)を出させると、足利持氏追討軍派兵を決定、先発隊として上杉持房(もちふさ。禅秀の子)、美濃守護・土岐持益(ときもちます)、斯波氏重臣・朝倉教景(あさくらのりかげ)ら美濃・越前の兵二万五千騎を東下させた。
また、駿河守護・今川範忠(いまがわのりただ)、甲斐守護・武田信重(たけだのぶしげ)、信濃守護・小笠原政康らや、京都御扶持衆(きょうとおんふちしゅう。鎌倉府領国内にいる幕府方武将)の足利満貞や山入与義らに憲実救援令を発し、持氏を完全包囲したのである。
細川持之が聞いた。
「御大将は誰になさいますか?」
義教は当然のように答えた。
「余じゃ。余自ら太刀(たち)を振るって成敗してくれるわ!」
「なんとぉ!」
持之は仰天した。
さすがにこればかりは侍所所司・赤松満祐、但馬等守護・山名持豊らとともに必死になって制止した。
「いけません! 将軍に万が一のことがあっては、天下が混乱いたしまする!」
「どうか、出馬ばかりは御勘弁を〜」
義教はやむなく出馬を取りやめた。
一方、持氏は八月十六日に鎌倉の留守を相模守護・三浦時高(みうらときたか)に任せると、憲実を討つため武蔵府中(ふちゅう。東京都府中市)高安寺(こうあんじ)に出陣した。
「幕府軍およそ二万五千! 箱根(はこね。神奈川県箱根町)を目指して東下中!」
「なあに。箱根は破れぬ」
「幕府軍、箱根と足柄(あしがら。神奈川県南足柄市)、二手に分かれましたー!」
「なんと! 憲直、すぐに足柄へ向かえ!」
「了解」
九月に入り、幕府軍と鎌倉軍は箱根と足柄で激突した。
案の定、箱根は破られなかったが、憲直の守る足柄のほうが突破された。
「頼りにならないヤツめ!」
持氏は府中から相模海老名(えびな。神奈川県海老名市)へ進んだ。
ここでおかしなことが起こった。
鎌倉の留守を任せていた時高が本拠の相模三浦(神奈川県三浦市)に帰ってしまったのである。
「えへへ、ちょっと武器を調達してきますんで」
でも、時高はなかなか鎌倉に帰らなかった。
持氏はいぶかしがった。
「早く留守番に戻ってくれよー」
使者を送ってせかすと、時高はついに本性をむき出した。
「うるせー! ホントはおれは負けるほうにつきたくねーんだよ!」
時高は裏切った。
十月、突如として鎌倉を攻撃したのである。
「三浦時高、裏切って鎌倉を攻撃ー!」
「上杉憲実、武蔵分倍河原(ぶばいがわら。東京都府中市)へ布陣ー!」
「幕府軍、箱根を突破! 大将軍・上杉持房、高麗寺(こまでら。光来神社。神奈川県大磯町)に着陣ー!」
持氏はジタバタした。
「いつの間にやら周囲は敵ばかりになっているではないか! これでは動きようがない!」
上総・下総守護・千葉胤直(ちばたねなお)が進言した。
「この状況を打開するには、管領憲実殿との和平しかございませぬ。他の武将たちはともかく、管領殿は本心からの離反ではございませぬ。なにとぞ、若君(義久)を管領殿にお遣わしくだされ! 関東が一つになれば、幕府も手は出せませぬ!」
が、持氏の側近・簗田満助(やなだみつすけ)が反発した。
「敵に人質をやるようなものではないか!」
「管領殿は敵ではございませぬ!」
「現に戦っているではないか!」
持氏はなだめた。
「憲実は敵ではない。憲実は幕府ではなく、関東の武将なのだ。何よりも君臣の道を重視する忠臣中の忠臣、武士の鑑なのだ。いざとなれば、必ずや助けてくれるであろう。余は憲実を信じている」
「では、若君をお遣わしに?」
「いや、その前に鎌倉を死守することだ」
持氏らは鎌倉救援に向かった。
進言を退けられた胤直はついてこなかった。
「どうせ拙者どもに用はないんでしょ〜」
で、本拠下総に帰ってしまったのである。
十一月、三浦時高は鎌倉府の本拠・大倉御所を焼き討ちにした。
足利義久・足利満直(持氏の叔父。稲村御所)らはバタついた。
「ひえー! なにすんのー!」
「君たち、味方じゃなかったのー!」
「早く! 御所様や若君はお逃げくだされー!」
簗田満助らは戦死し、義久・満直は報恩寺へ逃亡、足利安王丸(やすおうまる。持氏の次男)・春王丸(はるおうまる・しゅんおうまる。持氏の三男)は下野へ、永寿王丸は信濃へ逃れた。
一方、持氏は鎌倉へ向かう途中の相模藤沢で軍勢に取り囲まれた。
「誰だ? 敵か? 味方か?」
「関東管領上杉憲実配下の長尾忠政です」
軍勢の正体を知った持氏は少し安心して苦笑した。
「そうか。どっちかといえば味方だな」
忠政は勧めた。
「鎌倉勢は四面楚歌(しめんそか)、もはや勝ち目はありませぬ。なにとぞ御投降を」
「投降したところで許してもらえるであろうか?」
「関東管領は上杉憲直・一色直兼両名の処罰を望んでいるだけです。それ以上のことは望んでおりません。公方様は一刻も早く出家して恭順の意を示されることです」
「それがいいであろうな」
持氏はおとなしく忠政に従った。
で、十一月五日に武蔵称名寺(しょうみょうじ。横浜市金沢区)で出家したのである。
十一月七日、忠政が数千騎を引き連れて称名寺にやって来た。
「公方様を鎌倉の永安寺へお移しします」
「そうか」
持氏は従った。
「それにしても護送にしてはなんだこの大軍は」
「ハハッ! 大げさだな」
当然のように持氏に付き従おうとした憲直と直兼に、忠政らが取り巻いて刃物を突きつけた。
「残念ですが、あなた方奸臣はここで死んでもらいます」
「なんで? おれたち何か悪いことした?」
「えーい、こうなったら反抗だぁー! 食らえー!」
チャリーン!
チャリーン!
ばっさ!
ぶっさ!
「やられたー!」
「すげぇいてぇ!」
こうして憲直と直兼は殺された。
ついでに二人の子たちもぶっ殺された。
持氏は泣きながら永安寺へ向かった。
「許せ。おぬしらが死ぬことによって、余は助かるのだ」