5.鎌倉無情 〜 鎌倉公方最期

ホーム>バックナンバー2006>5.鎌倉無情〜鎌倉公方最期      

クジと談合
1.クジ将軍 〜 足利義教登場
2.京鎌冷戦 〜 足利持氏憤々
3.関東分裂 〜 上杉憲実退去
4.両軍激突 〜 激闘永享の乱
5.鎌倉無情 〜 鎌倉公方最期

 上杉憲実足利持氏の助命と足利義久の鎌倉公方就任を申し出た。
 何度も何度も自ら上洛したり、使者を送ったりして懇願した。
 が、足利義教の答えはいつも同じであった。
「反逆者を生かしておくわけにはいかぬ」

 永享十一年(1439)、義教憲実に厳命した。
持氏を殺
(や)れ。一家眷属(けんぞく)も皆殺しにせよ。後世に憂いを残してはならぬ。これが正道というものじゃ」
 憲実は拒否した。
「できませぬ! 拙者は鎌倉殿の家臣でございまする! 臣が主を討つことは君臣の道にそむきまする! 鎌倉殿は今後一切政治に関与いたしませぬ! 義久公の公方就任も望みませぬ! ただただ、お命だけはお助けください! 代わりに拙者の命を差し上げまする! 喜んで切腹して果てまする! どうか主君一族の命だけはお助けくださいっ!」
 義教は一喝した。
「だまれ! お前が持氏の代わりに切腹したところで、そんなものは忠義でもなんでもない! お前が持氏一族の助命を願ったところで、そんなものは君臣の道でもなんでもない! お前は鎌倉を見限り、幕府についたのじゃ! 持氏を見限り、この義教の臣下になったのじゃ! お前の今の主君はこの義教ぞっ! お前は主君の命令が聞けぬというかっ! 主君の敵に情けをかけるは君臣の道にあらず! 主君の正道に全力を尽くしてこそ、この上なき忠義なりっ!」

 憲実は観念した。
 涙をのんで歯を食いしばって決断した。
「承知いたしました。かくなる上は、拙者自ら鎌倉殿を成敗いたしまする」
 義教は言った。
「それが前主君に対する最期の忠義だと思え」
「ははあー」

 二月十日、憲実は上杉持朝(もちとも)・千葉胤直らとともに軍勢を率いて永安寺を攻め囲んだ。
将軍の御命令である! 鎌倉殿を討ち取れぇー!」
 境内に稲わらがばらまかれ、次々と火矢が放たれた。
公方様ー! 関東管領の軍勢が押し寄せてまいりましたー!」
「何だと!」
「うげ!」
 伝えた木戸伊豆守
(きどいずのかみ)は矢に当たって死んだ。
 持氏は絶叫した。
憲実めー! これが君臣の道かぁーっ!!!」

 持氏は自害した。享年四十二。
 また、行動をともにしていた足利満直も自害した。享年不明。
 持氏の夫人ほか数十人の女房たちは三重塔に隠れたが、ことごとく焼き殺された。
 二十八日には報国寺
(鎌倉市)にいた義久も自殺した。享年十。
 ここに四代約百年続いた鎌倉府は、事実上滅亡したのである
(後に持氏の遺児・成氏が再興するが、八年後に滅亡する)

[2006年11月末日執筆]
参考文献はコチラ

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system