5.鎌倉無情 〜 鎌倉公方最期 | ||||||||||||||
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上杉憲実は足利持氏の助命と足利義久の鎌倉公方就任を申し出た。
何度も何度も自ら上洛したり、使者を送ったりして懇願した。
が、足利義教の答えはいつも同じであった。
「反逆者を生かしておくわけにはいかぬ」
永享十一年(1439)、義教は憲実に厳命した。
「持氏を殺(や)れ。一家眷属(けんぞく)も皆殺しにせよ。後世に憂いを残してはならぬ。これが正道というものじゃ」
憲実は拒否した。
「できませぬ! 拙者は鎌倉殿の家臣でございまする! 臣が主を討つことは君臣の道にそむきまする! 鎌倉殿は今後一切政治に関与いたしませぬ! 義久公の公方就任も望みませぬ! ただただ、お命だけはお助けください! 代わりに拙者の命を差し上げまする!
喜んで切腹して果てまする! どうか主君一族の命だけはお助けくださいっ!」
義教は一喝した。
「だまれ! お前が持氏の代わりに切腹したところで、そんなものは忠義でもなんでもない! お前が持氏一族の助命を願ったところで、そんなものは君臣の道でもなんでもない! お前は鎌倉を見限り、幕府についたのじゃ! 持氏を見限り、この義教の臣下になったのじゃ! お前の今の主君はこの義教ぞっ! お前は主君の命令が聞けぬというかっ! 主君の敵に情けをかけるは君臣の道にあらず! 主君の正道に全力を尽くしてこそ、この上なき忠義なりっ!」
憲実は観念した。
涙をのんで歯を食いしばって決断した。
「承知いたしました。かくなる上は、拙者自ら鎌倉殿を成敗いたしまする」
義教は言った。
「それが前主君に対する最期の忠義だと思え」
「ははあー」
二月十日、憲実は上杉持朝(もちとも)・千葉胤直らとともに軍勢を率いて永安寺を攻め囲んだ。
「将軍の御命令である! 鎌倉殿を討ち取れぇー!」
境内に稲わらがばらまかれ、次々と火矢が放たれた。
「公方様ー! 関東管領の軍勢が押し寄せてまいりましたー!」
「何だと!」
「うげ!」
伝えた木戸伊豆守(きどいずのかみ)は矢に当たって死んだ。
持氏は絶叫した。
「憲実めー! これが君臣の道かぁーっ!!!」
持氏は自害した。享年四十二。
また、行動をともにしていた足利満直も自害した。享年不明。
持氏の夫人ほか数十人の女房たちは三重塔に隠れたが、ことごとく焼き殺された。
二十八日には報国寺(鎌倉市)にいた義久も自殺した。享年十。
ここに四代約百年続いた鎌倉府は、事実上滅亡したのである(後に持氏の遺児・成氏が再興するが、八年後に滅亡する)。
[2006年11月末日執筆]
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