3.ゆずれない願い | ||||||||||||||
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康保四年(967)五月二十五日、朕に引きこもってもいられない事態が起こった。
父上(村上天皇)が四十二歳で死んでしまったのだ。
「あおーん!父上〜!」
悲しんでいる間もなく、十八歳の朕は同日践祚(せんそ)した。
皇位継承のため、紫宸殿(ししんでん)で剣璽(けんじ。宝剣と神璽。三種の神器の総称とも)を引き継いだのだ。
問題は即位だった。
即位式は大極殿(だいごくでん)にある高御座(たかみくら)に上って、百官万民の前で執り行わなければならなかった。
「そんなことをしたら、美しすぎる朕の人気は爆発してしまうぜー!」
恐怖した朕は、ジイジ(藤原実頼)に相談してみた。
ジイジは提案した。
「では、即位式は大極殿ではなく、紫宸殿で執り行いましょう」
「よし、そうしよう。でも、それって前例がないことなんだろ? 百官万民にどう説明すれば?」
「御病気ってことでよろしいのでは?」
「仮病? いやだなー、ウソをつくのは」
「ウソではございません」
「え?」
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし。美しすぎるのもまた病気なのです」
●藤原実頼政権閣僚(967.6/) |
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官 職 | 官 位 | 氏 名 | 備考 |
天皇 | 冷泉天皇 | ||
関白太政大臣 | 従一位 | 藤原実頼 | 忠平の子。 |
左大臣 | 正二位 | 源 高明 | 醍醐天皇皇子。 |
右大臣 | 正二位 | 藤原師尹 | 実頼の弟。 |
大納言 | 従二位 | 藤原在衡 | 学者。 |
大納言 | 従二位 | 源 兼明 | 醍醐天皇皇子。 |
権大納言 | 従三位 | 藤原伊尹 | 実頼の甥。師輔の子。 |
中納言 | 正三位 | 藤原師氏 | 実頼の弟。 |
中納言 | 従三位 | 橘 好古 | 能吏。 |
中納言 | 従三位 | 藤原頼忠 | 実頼の子。 |
参 議 | 従三位 | 源 雅信 | 宇多天皇の孫。 |
参 議 | 従三位 | 源 重信 | 雅信の弟。 |
参 議 | 従三位 | 藤原朝成 | 師輔の子。 |
参 議 | 正四位下 | 源 重光 | 醍醐天皇の孫。 |
参 議 | 正四位下 | 藤原斉敏 | 実頼の子。頼忠の弟。 |
参 議 | 従四位上 | 源 延光 | 醍醐天皇の孫。 |
参 議 | 従四位上 | 藤原文範 | 能吏。 |
蔵人頭 | 従三位 | 藤原兼家 | 師輔の子。 |
六月二十二日、ジイジは関白になった。
「新帝は御病気ですので」
十月十一日、そういうことで朕は紫宸殿でこっそり即位した。
前月、妃の昌子が皇后に、朕の同母弟・守平(もりひら)が皇太弟になっていた。
朕にはすぐ下に為平(ためひら)という聡明な同母弟がいたが、彼は源の伯父上(源高明)の娘を嫁にしてしまっていたため、北家の人々から嫌われていた。
源の伯父上はおもしろくなかった。
関白左大臣から関白太政大臣なったジイジの後を受けて左大臣に昇格したぐらいでは気が収まらなかった。
「余は物語を書いている。陛下を主人公にした政治恋愛小説だ。だから陛下には公私ともに活躍してもらわなければならない。ところが、関白のしていることはなんだ? 陛下を衆前から遠ざけ、隠すようなことばかりしている。これでは陛下のとてつもない美貌(びぼう)が全く生かされない。陛下はこんな待遇でよろしいのか?」
朕が何か言おうとすると、ジイジが口をはさんだ。
「陛下は御病気なのです」
源の叔父上は笑った。
「御病気? それが分からない! 陛下は大嘗祭(だいじょうさい)ほか諸儀式でも御健康そのもので堂々としておられたではないか!」
「狂気というのは波があるのです。諸儀式をうまくこなせたのは、陛下の外祖父(藤原師輔)の霊が守ってくださったのでしょう」
「バカバカしい! どうごまかそうと貴殿ら北家の魂胆はお見通しだ!帝を病人ということにして権力を握りたいだけであろう!」
「……」
安和二年(969)三月二十五日、源の伯父上は大宰権帥(だざいのごんのそち)として九州へ左遷された。
為平を皇位につけようとした謀反に加担したためだという。
(ウソだ!)
朕には分かっていた。
だからジイジに聞いてみた。
「源の伯父上の失脚は、ジイジが策したのか?」
「まさか」
ジイジは笑った。
「私はもう、野心を抱くような年ではありません。うちの若い衆が勝手に動いたまでのこと」
「師尹(もろただ・もろまさ)大叔父上か? 伊尹伯父上? 兼通(かねみち)伯父上? それとも、兼家叔父上?」
「そんなこと、どうだっていいではありませんか。生前退位なされる陛下には関係のないことじゃ」
「セーゼンタイイ? なんだそりゃ?」
「あれ? 陛下は近々、皇太弟殿下に御譲位なされるのでは?」
「はえ?」
「うちの若い衆がうわさしてますわい。陛下が生前退位の意向を示されたと」
「何だって! 朕は何も言ってないぞ!」
「おかしいですなー」
朕は感づいた。
「あーっ、わかった! 朕の仮病がバレてきたんで、今度は十一歳の幼帝を担いで摂政として権力を握るつもりだな! 貴殿ら北家の魂胆はお見通しだ!」
「陛下は源高明と同じことをおっしゃいますね」
「本当のことを言って何が悪い!」
「本当のことを言ってしまった高明はどうなりましたか?」
「左遷された! てめーらのせいで!」
「では、本当のことを言ってしまった陛下はどうなりますかね?」
「ちっ、ちん朕を左遷すると申すのかっ!?」
「申しませんよ〜。陛下は自ら退位するとおっしゃったんです。安心してください。うちの若い衆はそれ以上求めたりはしません」
「朕は辞めない」
「はい?」
「朕はまだ二十歳だ。退位なんて当分ありえない!」
「そんなことが許されると思っているんですか?」
「許されるに決まっているじゃないか! 退位するかどうかは朕が決めることだ!
臣下が決めることではない!」
「陛下は忘れておられる」
「何をだ?」
「陛下は狂気なのです。正常な判断が下せない重病人なのです。君主が決められない時は臣下が代わって決定する。当たり前のことじゃないですか」
「だから、朕の狂気は仮病なのだ! 本当は正常な判断を下すことができるのだ!」
「陛下の狂気は周知です。すでに百官万民に知れ渡っていることなのです。今更それを否定したところで、信じる者はおりません」
「……」
「もう観念したらどうですか? えーっと、年内退位でよろしいですな?」
「朕は退位しないっ」
「まだ言いますか」
「残念だが、てめーらの思い通りにはさせない。皇位継承には剣璽が必要だ。剣璽は朕の掌中にある。朕が剣璽さえ手放さなければ、退位させられることはない」
「剣璽は今、手のひらの中でお持ちなのですか?」
「いや、夜御殿(よるのおとど)に」
「ふふふ、今もまだそこにありますかな?」
「!」
朕は不安になった。いてもたってもいられなくなった。
朕は夜御殿に走った。
途中、尚侍(ないしのかみ)を務める登子(とうこ)叔母上が、
「どうしました?」
と、朕の進入をさえぎるようにして出てきた。
叔母上は母上の妹で、フ子の姉だ。
「剣璽はあるか? 宝剣も神璽もあるか?」
「もちろんございますが」
朕は神璽の箱を手に取った。
叔母上は不安がった。
「何をなさいます?」
「中を確かめる」
「箱を開けるのですか?」
「当然だ」
「いけません! そのようなこと前例がございません! バチが当たります!」
「中身があるか確認するだけだ!」
朕は構わずひもを解くと、パカッと箱を開けた。
白煙のようなほこりが舞い上がったが、中身はなかった。
「ないではないか! 神璽はどこにいった!?」
いつのまにか駆けつけてきた兼家叔父上が答えた。
「陛下が前例のないことをなされたため、神の怒りに触れて消えてしまったのでございましょう」
兼家叔父上の娘・超子(ちょうし)は朕の女御の一人で、後に居貞(おきさだ。三条天皇)らを生むことになる。
「ふざけたことを申すな!」
朕は宝剣も手に取った。
刀身を確かめるため抜こうとしたが、抜けなかった。
「ふん! ふんっ! なぜ抜けないのだ?」
「知れたこと! 陛下の狂気に、神がお怒りなのでございます!」
「何だと! この朕が、そのような非現実的な妄言を信じると思っているのか!
ニセモノだから抜けないのであろう! 今すぐ本物の宝剣を持って来い! 神璽もだ!
宝剣と神璽、耳をそろえて持って来い! 兼家!何をしている! てめーらが奪い取ったことは分かりきっている! 早く持ってきやがれー!」
騒ぎを聞きつけて宮中の人々が集まってきた。
「何事ですか?」
「帝が騒いでおられる」
「帝がすごい形相で怒っておられる」
「怒った顔も美しーい」
兼家が人々を制止して呼びかけた。
「はい、はい、みなさん。何でもありませんよ〜。狂っていることで有名な陛下がいつものようにバカ騒ぎしているだけですから〜。今日のことは人にしゃべっても構わないですけど、とっととお帰りくださーい」
「キサマァァァ〜!」
朕は抜けないニセ宝剣を振り上げた。
「キャー! 帝に殺されるー!」
兼家は大げさにおびえ、大声上げて逃亡した。
「陛下の今日の狂気、過去最悪! 前代未聞! 万世一系いまだかつて今上に勝る狂帝ナシ!」
安和二年(969)八月十三日、朕は皇太弟守平に譲位した。在位わずか二年三か月弱であった。
九月二十三日、守平は即位(円融天皇)、朕の子・師貞(もろさだ)が皇太子になった。
もちろん、摂政になったのはジイジである。
十月十五日、師尹大叔父が五十歳で死んだ。
天禄元年(970)五月十八日には、ジイジも七十一歳で死んだ。
天禄三年(972)十一月一日には、伊尹伯父も四十九歳で死んだ。
天延三年(975)三月二十九日には、登子叔母が死んだ。
貞元二年(977)十一月八日には、兼通伯父も五十三歳で死んだ。
永祚二年(990)七月二日には、兼家叔父も六十二歳で死んだ。
天延三年(975)四月三日には、女御の懐子に先立たれた(享年三十一)。
天元五年(982)一月二十八日には、女御の超子にも先立たれた(享年不明)。
正暦二年(991)二月十一日には、弟の守平(円融天皇→円融法皇)にも先立たれた(享年三十三)。
長保元年(999)十二月一日には、皇后の昌子にも先立たれた(享年五十)。
寛弘五年(1008)二月八日には、息子の師貞(花山天皇→花山法皇)にも先立たれた(享年四十一)。
寛弘七年(1010)十一月七日には、弟の為平にも先立たれた(享年五十九)。
寛弘八年(1011)六月二十二日には、孫の懐仁(やすひと。一条天皇→一条法皇)にも先立たれた(享年三十三)。
朕が死んだのは、寛弘八年(1011)十月二十四日のこと。享年六十二。
第六番目の勅撰和歌集『詞花和歌集(しかわかしゅう。藤原顕輔編)』に、朕のこんな歌が載っている。
年へぬる竹の齢(よはひ)をかへしてもこのよを長くなさむとぞ思ふ
[2016年7月末日執筆]
ゆかりの地の地図
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