.怒涛!激闘!千早城の戦!!

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イラク戦争と赤坂・千早の戦
1.楠木正成参上!
2.壮絶! 熾烈! 赤坂城の戦!!
3.怒涛! 激闘! 千早城の戦!!

 元弘二年(1332)十一月、正成河内金剛山の千早城(千早赤阪村)で再挙した。

 同月、後醍醐天皇の皇子の一人・護良親王大和吉野山(奈良県吉野町)で挙兵している(「選択味」参照)

 十二月、正成は先に落城した赤坂城を奪還、翌元弘三年(1333)一月、六波羅勢と摂津天王寺(てんのうじ。大阪市天王寺区)などで交戦、これを追い散らした後、深追いせずに金剛山に引き上げた。
「勝てそうなところ、勝てそうなところに奇襲攻撃を加えれば、勝てるのだ」
「負けそうになったときは、負ける前に逃げてしまえば勝ちなのだ」

 正成の活躍に、全国の「隠れ後醍醐ファン」はひそかに喜んだ。
正成が生きていたそうな」
「各地で神出鬼没に兵を繰り出し、六波羅勢を右往左往させているそうな」
「大塔宮
(おおとうのみや・だいとうのみや。護良親王)も各地に令旨(りょうじ)をバンバン飛ばして奮戦しているそうな」

 中には感心しているだけではなく、
「わてらも戦うんやー!」
 と、呼応して兵を挙げる者たちも現れた。
 播磨の赤松則村
(あかまつのりむら。円心)大和の高間行秀(たかまぎょうしゅう)・高間快全(かいぜん)兄弟、紀伊の粉河寺(こかわでら)の僧徒などである。
 特に則村の勢いは強大で、播磨の「後醍醐ファン」を糾合、今にも畿内へ突入する構えを見せていた。

 西国の騒乱は、鎌倉幕府にも伝えられた。
「消したはずのものがまたくすぶり始めたか」
 幕府は再び大討伐軍を編制した。八十万
(一説に三十万とも五万とも)もの大討伐軍である。
 幕府軍は三手に分かれると、それぞれ赤坂城・吉野山・千早城の攻囲に向かった。

 大将軍・阿曽治時(あそはるとき)、軍奉行・長崎高貞(たかさだ。高資の弟または子)ら八万人は、正成の配下・平野将監(ひらのしょうげん)らがこもる赤坂城を猛攻、敵の水路を断ち、一か月かけてこれを陥落させた。
 将監ら約三百人の城兵は投降したが、全員京都の六条河原
(京都市下京区)で処刑された。

 大将軍・二階堂貞藤(にかいどうさだふじ。二階堂道蘊。一説に名越遠江守)、軍奉行・安東円光(あんどう・あんとうえんこう)ら二万七千人(六万とも)は、三手に分かれて護良親王こもる吉野山へ進撃、これを取り囲み、正面攻撃が不利と見るや背後から急襲、これを陥落させた。
「無念だが、これまでだ」
 護良親王は討死を覚悟したが、部下の村上義光
(むらかみよしてる)が身代わりになって討死し、その間に高野山へと落ち延びた。

「あとは千早城の正成だけだ」
 正成のこもる千早城攻めには、大将軍・大仏家時
(おさらぎいえとき。北条家時)、軍奉行・工藤高景(くどうたかかげ)らの超大軍と、赤坂城や吉野山を攻めていた軍勢、および、その他の連中(後述)が参加した。
 『太平記』によれば、攻囲軍は百万人
(数百万人とも)にも膨れ上がったという。

「百万!そんな大げさな。信じられない。いくら全国の武士を束ねている鎌倉幕府とはいえ、そんな超大軍を動員できるわけがないではないか。『太平記』の記述はウソっぱちだ」

 確かに、百万人とはにわかに信じられない数である。
 何しろこの数字は、日露戦争最大の激戦・奉天会戦の両軍合わせたもの
(日本軍二十五万。ロシア軍三十二万)よりも多いのだ。
 では、現実的な数字ははじき出せないものであろうか?
 奥州合戦
(おうしゅうかっせん)における鎌倉幕府軍が二十八万四千人、承久の乱における鎌倉幕府軍が十九万人、小田原(おだわら)攻めにおける豊臣軍が二十一万人、大坂冬の陣における江戸幕府軍が十九万四千人、第一次長州戦争における江戸幕府軍が十五万人、などから推測すると、鎌倉幕府が動員した正規軍は十万〜二十万ほど、どんなに多く見積もっても三十万は超えないと思われる。
 しかしながら、正成がこの戦いで日本史上最多級の敵に取り囲まれたという事実は揺らがないであろう。

 鎌倉幕府はこの戦いの前に、こんな触れを出している。
正成を討ち取った者には、その者の身分にかかわらず、丹波船井
(京都府南丹市)荘園を与える」
「なんだって!」
 これが全国にあふれていたカネに困っている貧窮御家人、もっと困っている失業御家人、暴力闘争メシより大好きの野武士、一攫千金
(いっかくせんきん)をもくろむ農民、とにかく食えればいい浮浪者、火事ケンカに目がない野次馬などを、あおらせ、巻き込み、参加せざるをえなくさせ、あれよあれよと超大軍に膨れ上がらせたのであろう。
 何しろ腐敗政権末期の不安定な不景気な時代のことだ。こう考えると、本当に百万人ぐらいは集まったのかもしれない。

「どけ。正成を討ち取るのはおれだー!」
「いや、丹波船井荘はおれがもらうー!」
「船井は渡さーん!」
 正成は、先を争って攻め上って来た欲深連中に大石をお見舞いし、矢雨を連射、たちまち寄手五、六千人を討ち取った。

 寄手の将・金沢貞将(かねざわさだまさ。北条貞将。一説に金沢貞冬)が、大仏高宣(たかのぶ。北条高宣)・家時兄弟に言った。
「先の赤坂城攻めでは、力攻めではなく、水断ちで勝った。今回もそれをやろう。水がわく場所を絶えず見張り、敵が水を汲めないようにして困らせるのだ」
 そこで二人は水のわく場所を調査させると、名越越前守
(北条時見?)ら兵三千人に昼夜見張らせてみた。

 が、正成はあらかじめ城内に水槽を二、三百も作らせて貯水していたため、すぐに困ることはなかった。
「なんだ。全然汲みにこないじゃないか」
 油断して見張りをおろそかにした頃を見計らい、正成は優秀な射手二、三百人に夜襲を仕掛けさせた。
「うわっ、来やがった!」
「寝ているときに来やがった!」
 不意を突かれた名越勢は、瞬く間に二十人ほどが討ち取られて撤退、正成は奪い取った名越家の旗を城に持ち帰ってはやし立てた。
「あっ! こんなところに名越家の旗が!」
「名越勢は楠木に降伏したんやろ!」
「悔しかったら取りに来てみい!臆病
(おくびょう)者!」
 百万人の前で笑い者にされた名越勢は、
「何たる屈辱!」
 と、激怒して大挙して城に押し寄せたが、大木転がし攻撃にあって四、五百人が圧死、五千人ほどが射落とされて、ただ恥を塗り重ねただけであった。

 軍奉行・長崎高貞が全軍に命じた。
「もう手出しはするな。水断ちがダメなら、食攻めだ」
 高貞は、城を遠巻きにさせた。そして、兵たちが退屈しないように京都から連歌師を呼び寄せて、大連歌会を開かせた。

 初日の発句は長崎師宗(もろむね)

   さきかけてかつ色見せよ山桜

 受けたのは工藤高景。

   嵐や花のかたきなるらん

「うまい!」
「さすが!」
 一同ほめたたえたが、味方を花に、敵を嵐にたとえるのは縁起でもないことに後で気が付いた。

 正成は、にぎやかに遊び始めた城下の様子を眺めて言った。
「どうやらまた、食攻めにするつもりらしいな」
 赤坂城のときよりも食糧はたくさん用意してあるが、手を出してこなければいじめようがないのでおもしろくない。
 そこで正成は、子分たちにワラ人形をたくさん作らせると、それに甲冑
(かっちゅう)を着せて城の前に並べさせた。

 これを見て、眼下の寄手が引っかかった。
「や!城兵が決死の覚悟で打って出てきたぞ!」
「討ち取れ!討ち取って手柄を立てよ!」
 喜んで攻め登ってきた寄手だったが、城に近づくにつれ、様子がおかしいことに気づいた。
「あ、違う!敵兵じゃない!ただのワラ人形だっ!」
「ってことは……」
「ワナだー!」
 分かったときにはすでに遅かった。
「それー!それー!」
 城からたくさんの大石がゴロンゴロンと落ちてきたからたまらない。寄手はまたまた三百人が即死、五百人が重傷を負った。

 高貞は味方をどなり散らした。
「だから、攻めるなっつーのっ!」
 そして、えらそうにふんぞり返っている城を見上げた。
「こうなったら、心理作戦だ」

 高貞は江口(えぐち。大阪市東淀川区)や神崎(かんざき。兵庫県尼崎市)からたくさんの遊女を呼び寄せてドンチャン騒ぎをさせた。
 囲碁・将棋・双六
(すごろく)など、色々なゲームも取り寄せ、みんなで楽しそうに遊ばせた。
 御馳走や銘酒、茶道具も取り寄せ、茶の湯や闘茶
(茶の産地を当てる遊び)をやらせてワイワイ騒がせた。
「みなのもの、食え!飲め!遊べ!思いっきり楽しんで、敵をうらやましがらせてやれ!」
「おー!」
「楽しーなー!」

 お祭り騒ぎのようになった城下に、城兵はうらやましがりはじめた。
「ええな、ええな」
「えらい城下は楽しそうやな」
「わいらも城を抜け出して遊びに行こか」
 が、まもなく城下では双六の目のことでもめ、ケンカになり、同士討ちに発展したため、誰もうらやましがる者はなくなってしまった。

「チッ、これも失敗か」
 高貞は歯ぎしりした。鎌倉からは、
「遊んでばっかおらずに、早く攻めんか!」
 と、督促の飛脚がひっきりなしに飛んでくる。
 高貞は他の将軍や奉行などと相談して作戦を練った。
「あの険しいがけ、何とかならないか?あれでは城までたどり着くまでにくたばっちまう」
「それに、一気に大勢で攻め込むことができない」
「橋をかけてはどうか?長いはしごを作り、こちらから城へ倒すのだ。そうすれば傾斜も緩やかになり、一気に城内へなだれ込むことができるだろう」
「いいな、それ」
 そういう作戦になった。

 高貞らは、京都から腕の立つ大工五百人を呼び寄せると、長さ二十丈余り(約六十メートル)、幅一丈五尺(約四・五メートル)という巨大はしごを作らせた。
 これに綱をたくさんつけ、城に向けて倒し架け、つり橋のようにしたのである。
「やった!大成功だ!」
 高貞はできに満足した。そして、兵たちに命じた。
「どうだ!これで城までは平坦
(へいたん)になった!後はもう早い者勝ちだ!敵を切りまくって今までの鬱憤(うっぷん)を存分に晴らしてやれ!」
 寄手は、今度こそと我先にと橋の上を駆け抜け、城内へなだれ込もうとした。

 城兵は動揺した。
「おっ、変なもん架けよった!」
「敵が来まっせ!」
「めっちゃ来るやんけ!」
 正成は慌てなかった。風向きを確かめてから、立て続けに指図した。

 寄手の先陣がまさに城内に突入しようとしたときであった。
 城からバラバラとたいまつが投げ込まれたのである。
 続いて水弾き
(巨大水鉄砲)で油がまかれ、火矢が放たれた。
 寄手はたじろいだ。進撃は止まってしまった。
「わっ!ちょっと待った!」
「来るな!燃え始めた!」
「押すなって!アッチッチー!」
 橋の上の寄手は、前方は火に、後方は押し出そうとする味方の大軍に阻まれ、身動き取れなくなった。
 そうこうしているうちに火は綱にも燃え移り、ギギギと音を立てて橋が傾き始めた。
「ゲッ!やばい!」
「落ちるぞ!」
「早く戻れ!まずいって!落ちるって!」
 兵たちの急な移動に、橋は耐えることができなかった。ついに大勢の兵たちを乗せたまま、阿鼻叫喚
(あびきょうかん)の叫び声を伴って深い谷底へ落下していったのである。
「ああー!」
「ギャー!ギャー!」
 どどぅーーーん!!!

 そして、すさまじい轟音(ごうおん)の後は、ウソのような静けさがあたりに漂った。

 この作戦失敗の後、攻囲軍は食糧の補給路を断たれたこともあって、たちまち十万人ほどに減ってしまったという。

 閏二月、後醍醐天皇は千種忠顕とともに隠岐を脱出、伯耆の土豪・名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山(鳥取県琴浦町)で挙兵した。

 四月、足利高氏丹波の篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう。京都府亀岡市)にて幕府に反旗を翻した。

 五月、高氏・赤松則村・忠顕らが京都へ侵攻、六波羅探題南方・北条時益(ときます)、六波羅探題北方・仲時(なかとき)を討ち、六波羅探題を滅亡させた。

 同月、新田義貞が鎌倉へ進軍(「進撃味」参照)北条高時・長崎高資(たかすけ)らは東勝寺(とうしょうじ。神奈川県鎌倉市)で自害し、ここに百四十年続いた鎌倉幕府は滅び去った。

 六月、後醍醐天皇は帰京し、いわゆる「建武の新政(建武の中興)」が開始されたのである。

[2003年4月末日執筆]
ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ

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