★ 人の不幸は我が身の幸福! 平安最強の権勢家はこうして満ちた! 〜 藤原道長最後の抗争・長徳の変!!! |
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月は夜の帝王である。夜空で最も明るく輝く星である。
太陽のそばでは、月はネコをかぶっている。
太陽様のご機嫌を損ねないよう、白く小さくなっている。
「私はワルではありませんよ」
ところが、太陽が沈むと、月は変貌(へんぼう)する。横柄に明るく輝き始めるのである。
「じゃまだ。どけどけ。お月様のお通りだ」
そんなに肩幅をきかせてすごまなくても、夜空で彼にかなうヤツなんていない。全天一の光度を誇る恒星シリウスでも、六万年ぶりに大接近した火星でも、月と比べればゴマ粒みたいなものである。
「明るいだろう。お前たちよりずっとずっと明るいだろう」
「はいはい。明るうございます」
星たちは知っている。月は自ら光っていないということを。どんなに明るく輝こうとも、その光はみんな、太陽のおこぼれだということを――。
月は孤独である。どこか寂しげで影がある。
昔の人々は、そんな月を見上げて思った。
(月には何かある)
何があるかは分からなかった。
分からないから拝んでみた。
願いごとがかなったりした。
人々はありがたかった。
「月には魔力がある。お月様の力にあやかろうではないか」
こうして「月見」が行われるようになった。
日本本来の月見は「十三夜」の月だったといわれているが、中国から「中秋の名月(旧暦八月十五日の月)」の風習が伝わると「十五夜」の月見が一般的になった。
ちなみにサトイモや団子(だんご)や饅頭(まんじゅう)などを供えるのは、月が丸いからだという。
また「月待(つきまち)」の風習も広まった。
十七夜(立待)・十八夜(居待)・十九夜(寝待)・二十三夜(下弦)など、決まった夜に大勢で集まって飲食し、月を拝んで夜を明かしたのである。
江戸時代には、成人式として月見が行われた。
十六歳になった男女が、六月十六日の夜に宴を開き、お供え物の饅頭などに穴をあけ、それを通して月を見たのである。
「こうすると、月に将来結婚する人の姿が写るのよ」
母に言われて、
「誰かな誰かな〜?」
なーんて胸ときめかせてのぞいてみたところ、
「いい男が見えるだろう?」
と、ふざけて顔を出した父の顔が写っていたりして、かなりショックを受けた娘も多かったことであろう。
今回は平安貴族の帝王・藤原道長が、権勢を誇るきっかけになった最後の抗争「長徳の変(ちょうとくのへん)」をご紹介する。
「長徳の変? そんな事件あったかな?」
耳慣れない事件だが、道長が甥(おい)の藤原伊周(これちか)を左遷した政変だといえば、お分かりの方も多いであろう。
この政変で最大の政敵をおとしめた道長は、四人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)を四代の天皇に嫁がせることに成功、以後は権力街道を驀進(ばくしん)していったのである。
道長は寛仁二年(1018)十月十六夜、威子(いし)立后の宴にて、自らの栄華を満月にたとえた。
この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思えば
よく、現在の政治家や企業家たちが戦国や幕末の権力闘争や経営手法などを学んだりする。
しかし現在は、当時と違って切った切られたの時代ではないため、それらをそのまま真似ると、警察のお世話になりかねない使えないものが多い。
その点、平安時代や江戸時代半ばなど平和な時代のそれらは、わりとそのまま使えたりするものである。
藤原道長はいやらしい権力者である。
道長には乱世に生きた頼朝・信長・秀吉・家康などのような厳しさはないが、違う意味ウジウジした汚さがプンプン漂っている。
彼のことを悪く言う歴史家は少ないが、私は彼を相当なワルだったと信じて疑わない。
どちらかといえば彼に敗れた伊周はいい人である。失脚した人が悪く史書に書かれるのは世の常だ。
藤原道長は月である。まさしく夜の帝王である。
[2003年8月末日執筆]
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参考文献はコチラ
【藤原道長】ふじわらのみちなが。内覧。右大臣。伊周・隆家・定子の叔父。
【藤原詮子】ふじわらのせんし。東三条院。道長の姉。一条天皇の生母。
【藤原道隆】ふじわらのみちたか。関白。道長の長兄。伊周・隆家・定子の父。
【藤原道兼】ふじわらのみちかね。関白。道長の三兄。伊周らの叔父。
【花山法皇】かざんほうおう。法皇。夜の帝王。
【惟宗允亮】これむねのただすけ。検非違使。当代一の法律家。
【 僧 某 】法琳寺の僧。
【道長・伊周の従者たち】
【藤原定子】ふじわらのていし。一条天皇の中宮(皇后)。藤原道隆の娘。
【藤原隆家】ふじわらのたかいえ。藤原道隆の子。伊周・定子の弟。
【藤原伊周】ふじわらのこれちか。内大臣。藤原道隆の子。道長の甥。