1.反抗するぜ三浦義同 | ||||||||||||||
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三浦時高は相模守護、相模新井(あらい。神奈川県三浦市)城主である。
去る永享の乱では、鎌倉公方・足利持氏を裏切って鎌倉を攻略、これを自害に追い込んで幕府方に勝利をもたらした(「クジ味」参照)。
乱後、時高の名声は関東一円にとどろいたが、一方で主君を討った裏切り者としてさげすむ声もあった。
時高は気にしなかった。
「悪口を言われるということは、何よりもおれが生きている証拠だ。死んでしまっては悪口さえ言われない」
三浦義同 PROFILE | |
【生没年】 | 1451?-1516 |
【別 名】 | 道寸・新介・陸奥入道 |
【出 身】 | 相模国(神奈川県) |
【本 拠】 | 相模国新井城(神奈川県三浦市) →相模国総世寺(神奈川県小田原市)→新井城 →相模国岡崎城(神奈川県平塚市・伊勢原市) |
【職 業】 | 戦国大名(東相模領主) |
【役 職】 | 相模守護・陸奥守 |
【位 階】 | 従四位下 |
【 父 】 | 上杉(三浦)高救 |
【義 父】 | 三浦時高(異説あり) |
【 母 】 | 大森氏頼または実頼の娘 |
【 妻 】 | 横須賀連秀の娘ら |
【 子 】 | 三浦義意・三浦(正木)時綱・女(太田資康室)ら |
【主 君】 | 扇谷上杉朝良・朝興ら |
【 師 】 | 東常縁・忠室 |
【兄 弟】 | 三浦道香(義教)・三浦高教 |
【部 下】 | 出口茂忠・大森越後守 ・佐保田豊後守・佐保田河内守ら |
【作 品】 | 法華経(鎌倉荏柄天神社蔵) |
【仇 敵】 | 北条早雲(伊勢宗瑞)ら |
【墓 地】 | 円覚寺寿徳庵(神奈川県鎌倉市) 新井城跡供養塔(三浦市) |
【霊 地】 | 永昌寺・海蔵寺(三浦市) |
そんな時高には悩みがあった。
それは子がないことであった。
がんばっていないわけではなかった。あちこちで手を変え品を変え血のにじむような努力を重ねていた。
「ダメだこりゃ」
時高はあきらめた。
主家筋の関東管領家・扇谷上杉家の上杉高救(たかひら)の子を養子に迎えた。
これが三浦義同(よしあつ。後の道寸)である。
義同は偉丈夫で勇敢な武将に成長した。
時高は満足した。
ところが、信じられないことが起こった。
時高に実子が生まれちまったのである。
これが三浦高教(たかのり)である。
「もっと早く生まれてくれよ〜」
時高は嘆いた。
高教はかわいかった。
愛想のない義同の顔を見た後は、特にいとおしく感じられた。
(別に早く生まれなくてもいいじゃないか)
時高は高教に跡を継がせたいと思うようになった。
(何か問題でも?)
その思いは、日を重ねるごとに増していった。
ある日、時高は義同を狩りに誘った。
鹿(しか)を谷に追い詰めたときに、時高は矢を義同に向けて放った。
「あ、手がすべった!」
ヒューン!
チッ!
矢は義同の顔をかすめ、ほおに赤いスジを残した。
義同はキッと時高をにらみつけた。
時高は笑っていた。嫌な笑みだった。
「わりぃわりぃ〜。わざとじゃないから許せ」
(わざとだ)
義同は決め付けた。
(このままでは殺される〜)
義同は恐怖した。びくびく落ち着けなくなり、ついに出奔して外祖父(母の父)を頼った。
外祖父とは、相模小田原(おだわら。神奈川県小田原市)城主・大森氏頼(おおもりうじより)である。
三浦氏は相模守護であるが、東半国の領主であり、西半国は大森氏が領していた。
「かわいい孫に何てことするんだ!」
氏頼は義同を総世寺(そうせいじ。小田原市)でかくまった。
「ここにいれば大丈夫だ。いつかジイジが仕返ししてやるからな」
義同はそこで出家し、道寸(どうすん)と名乗った。それからどうすんかは考えていなかった。
ある日、総世寺に変な僧が訪ねてきた。
「そのほうが三浦の当主か?」
眼光鋭い、顔がネズミっぽい、けったいな老僧であった。
「いえ。私は三浦を追われた身ですが」
「もといもとい。将来の当主じゃった」
「将来なんか、私にはもうありません」
「ほざけ!まだ若いのにぃ〜。わしなんぞこの年でまだスキあらば成り上がろうと思うておる。ヒッヒッヒ!」
老僧は聞いてもいないのに勝手に己の野心を語り始めた。
すでに相当な年なのに、なぜか革新的なジジイであった。
「中年よ、大志を抱け!老年もまた大志を抱くがゆえに!」
道寸は笑っちまった。
(あんたはもう人生終わってるだろ!)
危うくそう言いかけたが、言い換えた。
「それなら『三略(さんりゃく)』とか『孫子(そんし。ともに古代中国の兵法書)』なんかを読んで、日々勉強しているんですか?」
老僧は笑った。
「軍学書というものは机上の空論に過ぎず、実戦では何の役にも立たぬ。まだ『太平記』や『平家物語』など生きた軍記物語のほうがよほどためになる。どの道、ヒト様の書いたものはカスじゃ。書かれた時点ですでに古くなっておる。それをマネすることは二番煎(せん)じということじゃ。わしは常に新しきことを求めておる。人生最大の奥義は、我流よ」
老僧は、宗瑞と名乗った。法名であった。
俗姓は伊勢(いせ)。
俗名は盛時(もりとき)、長氏(ながうじ)、のち氏茂(うじしげ)。
いわゆる北条早雲である。
明応三年(1494)九月、道寸は、大森藤頼(ふじより。氏頼の子)や箱根神社(神奈川県箱根町)別当・海実(かいじつ。氏頼の傍系)らの後援を得て突如挙兵、新井城に時高・高教父子を攻め滅ぼし、強引に三浦氏当主を相続、相模守護を継承し、新井城主となったのである。
「おのれ、この親不孝者っ!」
時高の享年は七十九。
「大介(時高)が新介(道寸)に討たれたのは、かつて主君を裏切った報いだ」
当時の人々はそううわさし合ったという。
※ 近年では、時高の養子になったのは道寸の父・高救であり、ゆえに時高と道寸の戦いはなかったという説も有力です。
※ 小説『箱根の坂(司馬遼太郎著)』などにもありますが、三浦氏の内訌(ないこう)には、北条早雲が一枚かんでいるものと思われます。
※ また、この時期に相次いで没した扇谷上杉定正(さだまさ)や大森氏頼の死についても、早雲による陰謀の線を否定し切れません。