2.しぶといぜ北条早雲

ホーム>バックナンバー2008>2.しぶといぜ北条早雲

三浦家の一族
1.反抗するぜ三浦義同
2.しぶといぜ北条早雲
3.怖すぎるぜ三浦義意

 北条早雲こと伊勢宗瑞の生国は明らかではない。
 山城説、伊勢説、大和説などがあるが、近年有力なのは備中説である。
 備中で生まれ、上洛して将軍家に仕え、妹の嫁ぎ先である駿河の今川家で頭角を現し、まず伊豆一国を切り取り、次いで相模に矛先を転じて戦国大名の先駆けとなったのであろう。

 さらに、三浦道寸が家督相続した翌年明応四年(1495)には、相模小田原城を「火牛の計」で奪取(「侵攻味」参照)、大森藤頼を追放し(殺害したとも)相模西半国を制圧、道寸と「お隣同士」になったのである。
「うれしくはないな」
 何しろ親類のカタキである。道寸は警戒した。
 いつか総世寺で見た宗瑞の姿を思い出して、その年齢が気になった。
宗瑞は今年何歳だ?」
 道寸の娘婿・太田資康
(おおたすけやす)が調べた。
 資康は、かの太田道灌
(どうかん。資長)の子で、武蔵江戸(えど。東京都千代田区)城主である。
「六十四歳かと」
 何せ人生五十年の時代である。義同は笑っちまった。
「なんだ。カンオケに片足を突っ込んでいるではないか」

【三浦氏(戦国時代)略系図】
赤字は女性。重要人物のみ。
三浦高明 ━時高━ (高救) 義同 義意
(大介) (道寸) (荒次郎)
義教 時綱
(道香) (正木時綱)
[太田資康室]
出口高信 茂忠 茂信 茂正
(三浦浄心)

 明応五年(1496)七月、山内上杉顕定(やまのうちうえすぎあきさだ)が小田原城を攻撃、宗瑞はこれを撃退したものの、弟・伊勢弥次郎(やじろう)を失った。
 道寸は喜んだ。
「そうだ!人は死ぬものなのだ!」
 喜びのあまり、自分も小田原城に攻め入ってやった。
 わざと収穫時に乗り込んで、稲を刈り盗るなどの嫌がらせもしてやった。
 それでも宗瑞は反撃してこなかった。
「攻撃に転じるのはまだ早い」
 徹底して小田原城の城造りに努めたのである。
 道寸は笑っちまった。
「まだ早いって、宗瑞はいったい何歳まで生きるつもりだ?」

 三浦軍は味を占めた。
 毎年のように収穫時に宗瑞領に乱入し、民家に火を放ち、田畑を荒らし、略奪の限りを尽くすようになった。
 それでも宗瑞は反撃しなかった。
 次の年も、また次の年も、またまた次の年も、見てるだけ〜であった。

 そのようにして五年たち、十年たち、十五年が過ぎた。
 道寸は資康に聞いた。
宗瑞はまだ生きているのか?」
「はい。しぶとく」
「今年で何歳になった?」
「七十九歳かと」
 道寸は笑っちまった。
「なんだ。ほとんどカンオケではないか」

 永正九年(1512)、道寸は例年のごとく宗瑞領に攻め込んだ。
 初夏の麦狩り、秋の稲刈りは恒例になっていたのである。
 その年も、三浦軍が略奪を行うのを、宗瑞は出陣したが反撃はさせず、見守っているだけであった。
「臆病
(おくびょう)者めが!」
 帰り際、三浦軍は馬入川
(相模川)で行水した。
 これもまた恒例になっていた。
 三浦軍は対岸で見ているだけ〜の小田原軍にヤジった。
「へっ、バーカ!」
「大将が老いぼれだと、家来も弱気になるのかー!」
「このケツでも食らえー!」
 三浦軍はドッとはやし立てた。
 これもまた恒例になっていた。
 ただ違っていたのは、そのとき初めて小田原軍が攻めてきたということであった。
 宗瑞の軍配がついに火を噴いたのである。
「行けー!十数年の鬱憤
(うっぷん)を、この一戦ですべて晴らすのじゃーっ!」
 小田原軍は堰
(せき)を切ったように怒濤(どとう)のごとく攻め込んだ。
「わー!わー!」
「今までの恨みを思い知れー!」
「みんなみんなぶった切ってやるわぁー!」
 三浦軍は慌てた。
「わっ、ついに攻めてきよった!」
「なんかスゲー怒ってるぞっ!」
「かなわん、逃げろー!」
 三浦軍は壊走した。
 小田原軍はどこまでも追ってきた。
 一気に道寸の居城・岡崎城
(神奈川県平塚市・伊勢原市)まで押し寄せ、猛然と攻めまくった。
 小田原軍は恐ろしく強かった。
 城門はいとも簡単に次々と突破された。
「小田原軍、一ノ城戸突破ーっ!」
「二ノ城戸も突破ーっ!」
「いたな道寸!はい、敵ですよ!お命ちょうだいー!」
「やるもんか、クッソー!」

 道寸はたまらず逃亡した。
 弟・三浦道香
(どうこう。義教)の守る住吉城(神奈川県逗子市)に逃れた。
 が、そこもたちまち小田原軍に取り囲まれた。
 道寸は押し寄せる敵どもを切り倒し蹴
(け)倒し踏み倒しながら叫んだ。
「早急に扇谷上杉家に援軍を求めよーっ!」
 道香が残念そうに言った。
宗瑞は事前に扇谷と講和しておりまする。援軍は来ません。ここは私が防ぎます。早くお逃げをっ!」

 道寸は再び逃走した。
 いったん清浄光寺
(神奈川県藤沢市)で踏みとどまってみたものの、やはり防ぎきれずに敗走した。
「我こそは三浦陸奥入道道寸義同なりー!」
 道香は身代わりになって討ち死にした。
「義父殿、助けに来たぜー!ぐわー!」
 江戸城
から救援に来た太田資康も、瞬く間に討ち取られてしまった(異説あり)

 道寸は本拠・三浦半島に逃れた。
 小田原軍は追撃を緩めず半島に乱入、諸所でことごとく三浦軍を打ち破った。
 道寸は最後のとりで、旧居城・新井城に入った。
「小田原軍は強い。強すぎるっ」
 新井城の現城主は、道寸の子・三浦荒次郎義意である。
「しかしこの城は頑強です」
 新井城は天険の要害であった。
 三浦半島の端にあり、北・南・西三方を海で囲まれ、東方には深い堀が掘られていた。つまり、城そのものが海に浮かぶ島なのである。
「ああ、大丈夫だ。この城を落とすには、とんでもない長期戦になる」
 義意もうなずいた。
「つまり、その間に宗瑞の寿命は尽きるということです」

 案の定、宗瑞は簡単に新井城を落とすことはできなかった。
「こうなったら兵糧攻めよ」
 宗瑞は三浦半島の根元に玉縄城
(神奈川県鎌倉市)を築いて陸路を封鎖し、長期戦に臨んだ。また、海上も封鎖するため、強力な水軍も編制した。
 道寸は笑っちまった。
「八十一歳の宗瑞に長期戦をする時間はない!わしは生きる!生きて生きて生きまくって宗瑞に勝つのだーっ!」

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system