2.しぶといぜ北条早雲 | ||||||||||||||
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北条早雲こと伊勢宗瑞の生国は明らかではない。
山城説、伊勢説、大和説などがあるが、近年有力なのは備中説である。
備中で生まれ、上洛して将軍家に仕え、妹の嫁ぎ先である駿河の今川家で頭角を現し、まず伊豆一国を切り取り、次いで相模に矛先を転じて戦国大名の先駆けとなったのであろう。
さらに、三浦道寸が家督相続した翌年明応四年(1495)には、相模小田原城を「火牛の計」で奪取(「侵攻味」参照)、大森藤頼を追放し(殺害したとも)、相模西半国を制圧、道寸と「お隣同士」になったのである。
「うれしくはないな」
何しろ親類のカタキである。道寸は警戒した。
いつか総世寺で見た宗瑞の姿を思い出して、その年齢が気になった。
「宗瑞は今年何歳だ?」
道寸の娘婿・太田資康(おおたすけやす)が調べた。
資康は、かの太田道灌(どうかん。資長)の子で、武蔵江戸(えど。東京都千代田区)城主である。
「六十四歳かと」
何せ人生五十年の時代である。義同は笑っちまった。
「なんだ。カンオケに片足を突っ込んでいるではないか」
【三浦氏(戦国時代)略系図】 |
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明応五年(1496)七月、山内上杉顕定(やまのうちうえすぎあきさだ)が小田原城を攻撃、宗瑞はこれを撃退したものの、弟・伊勢弥次郎(やじろう)を失った。
道寸は喜んだ。
「そうだ!人は死ぬものなのだ!」
喜びのあまり、自分も小田原城に攻め入ってやった。
わざと収穫時に乗り込んで、稲を刈り盗るなどの嫌がらせもしてやった。
それでも宗瑞は反撃してこなかった。
「攻撃に転じるのはまだ早い」
徹底して小田原城の城造りに努めたのである。
道寸は笑っちまった。
「まだ早いって、宗瑞はいったい何歳まで生きるつもりだ?」
三浦軍は味を占めた。
毎年のように収穫時に宗瑞領に乱入し、民家に火を放ち、田畑を荒らし、略奪の限りを尽くすようになった。
それでも宗瑞は反撃しなかった。
次の年も、また次の年も、またまた次の年も、見てるだけ〜であった。
そのようにして五年たち、十年たち、十五年が過ぎた。
道寸は資康に聞いた。
「宗瑞はまだ生きているのか?」
「はい。しぶとく」
「今年で何歳になった?」
「七十九歳かと」
道寸は笑っちまった。
「なんだ。ほとんどカンオケではないか」
永正九年(1512)、道寸は例年のごとく宗瑞領に攻め込んだ。
初夏の麦狩り、秋の稲刈りは恒例になっていたのである。
その年も、三浦軍が略奪を行うのを、宗瑞は出陣したが反撃はさせず、見守っているだけであった。
「臆病(おくびょう)者めが!」
帰り際、三浦軍は馬入川(相模川)で行水した。
これもまた恒例になっていた。
三浦軍は対岸で見ているだけ〜の小田原軍にヤジった。
「へっ、バーカ!」
「大将が老いぼれだと、家来も弱気になるのかー!」
「このケツでも食らえー!」
三浦軍はドッとはやし立てた。
これもまた恒例になっていた。
ただ違っていたのは、そのとき初めて小田原軍が攻めてきたということであった。
宗瑞の軍配がついに火を噴いたのである。
「行けー!十数年の鬱憤(うっぷん)を、この一戦ですべて晴らすのじゃーっ!」
小田原軍は堰(せき)を切ったように怒濤(どとう)のごとく攻め込んだ。
「わー!わー!」
「今までの恨みを思い知れー!」
「みんなみんなぶった切ってやるわぁー!」
三浦軍は慌てた。
「わっ、ついに攻めてきよった!」
「なんかスゲー怒ってるぞっ!」
「かなわん、逃げろー!」
三浦軍は壊走した。
小田原軍はどこまでも追ってきた。
一気に道寸の居城・岡崎城(神奈川県平塚市・伊勢原市)まで押し寄せ、猛然と攻めまくった。
小田原軍は恐ろしく強かった。
城門はいとも簡単に次々と突破された。
「小田原軍、一ノ城戸突破ーっ!」
「二ノ城戸も突破ーっ!」
「いたな道寸!はい、敵ですよ!お命ちょうだいー!」
「やるもんか、クッソー!」
道寸はたまらず逃亡した。
弟・三浦道香(どうこう。義教)の守る住吉城(神奈川県逗子市)に逃れた。
が、そこもたちまち小田原軍に取り囲まれた。
道寸は押し寄せる敵どもを切り倒し蹴(け)倒し踏み倒しながら叫んだ。
「早急に扇谷上杉家に援軍を求めよーっ!」
道香が残念そうに言った。
「宗瑞は事前に扇谷と講和しておりまする。援軍は来ません。ここは私が防ぎます。早くお逃げをっ!」
道寸は再び逃走した。
いったん清浄光寺(神奈川県藤沢市)で踏みとどまってみたものの、やはり防ぎきれずに敗走した。
「我こそは三浦陸奥入道道寸義同なりー!」
道香は身代わりになって討ち死にした。
「義父殿、助けに来たぜー!ぐわー!」
江戸城から救援に来た太田資康も、瞬く間に討ち取られてしまった(異説あり)。
道寸は本拠・三浦半島に逃れた。
小田原軍は追撃を緩めず半島に乱入、諸所でことごとく三浦軍を打ち破った。
道寸は最後のとりで、旧居城・新井城に入った。
「小田原軍は強い。強すぎるっ」
新井城の現城主は、道寸の子・三浦荒次郎義意である。
「しかしこの城は頑強です」
新井城は天険の要害であった。
三浦半島の端にあり、北・南・西三方を海で囲まれ、東方には深い堀が掘られていた。つまり、城そのものが海に浮かぶ島なのである。
「ああ、大丈夫だ。この城を落とすには、とんでもない長期戦になる」
義意もうなずいた。
「つまり、その間に宗瑞の寿命は尽きるということです」
案の定、宗瑞は簡単に新井城を落とすことはできなかった。
「こうなったら兵糧攻めよ」
宗瑞は三浦半島の根元に玉縄城(神奈川県鎌倉市)を築いて陸路を封鎖し、長期戦に臨んだ。また、海上も封鎖するため、強力な水軍も編制した。
道寸は笑っちまった。
「八十一歳の宗瑞に長期戦をする時間はない!わしは生きる!生きて生きて生きまくって宗瑞に勝つのだーっ!」