1.御家人代表・安達氏 | ||||||||||||||
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安達氏の本姓は藤原氏である。
藤原北家・藤原魚名(うおな。永手の弟。「ヤミ味」参照)の末裔(まつえい)とされ、その十三世孫・小野田兼盛(おのだかねもり。兼広)が陸奥安達郡(福島県二本松市ほか)に住み、安達氏を称したと伝えられている(武蔵足立郡を本拠とする足立氏と関係があるともされている)。
兼盛の子・盛長(もりなが)の代に、安達氏は台頭する。
鎌倉幕府開創者・源頼朝に仕えて活躍し、重臣の一人になったのだ。
頼朝死後も有力御家人の一人として二代将軍・源頼家を補佐、将軍諮問機関「十三人合議制」にも名を連ね、三河守護にも任ぜられた。
盛長の子・景盛(かげもり)は、父に勝る傑物であり、策士であった。
妾(めかけ)を奪われた頼家には嫌われたが、三代将軍・源実朝、尼将軍・北条政子(「栄光味」参照)、二代執権・北条義時以降に信頼され、将軍に次ぐ武門の名誉職・秋田城介(あきたじょうすけ)に就任、従四位下に叙せられたのである。
承久元年(1219)に実朝が暗殺されると(「2003年4月号 将軍味」参照)、景盛は高野山に登り、金剛三昧院(こんごうざんまいいん)を建立、娘・松下禅尼(まつしたぜんに)を通して幕政をリモートコントロール(遠隔操作)し、外孫二人(北条経時・時頼)を執権に就けることに成功した。
宝治元年(1247)、余命短いことを悟った景盛は、鎌倉へ舞い戻ってきた。
「死ぬ前にどうしてもあやつらをつぶしておかねばならぬ」
あやつらとは、相模三浦郡(神奈川県三浦市)を本拠とし、鎌倉のある相模ほか数か国の守護を一族で占めていた有力御家人・三浦(みうら)氏であった(「三浦味」参照)。
中でも当主・三浦泰村(やすむら)、その弟・光村(みつむら)は、兄弟そろって評定衆に列し、幕府内で強大な力を誇っていたのである。
安達泰盛 PROFILE | |
【生没年】 | 1231-1285 |
【別 名】 | 覚真・陸奥入道 |
【出 身】 | 相模国(神奈川県) |
【本 拠】 | 鎌倉甘縄邸(神奈川県鎌倉市) |
【職 業】 | 武将(御家人) |
【役 職】 | 評定衆(1256-1285) ・引付頭人(1256-1262,1264-1266,1269-1284) ・上野守護(1244-1285)・肥後守護(1276-1285) ・秋田城介・陸奥守・越訴奉行・御恩奉行など |
【 父 】 | 安達義景(安達景盛の子) |
【 母 】 | 小笠原時長女 |
【妹o娘】 | 覚山尼(北条時宗室) |
【 子 】 | 安達宗景・安達盛宗 |
【主 君】 | 北条時頼・北条時宗・北条貞時ら |
【仇 敵】 | 平 頼綱 |
【没 地】 | 鎌倉塔ノ辻(神奈川県鎌倉市) |
景盛は、執権・時頼にささやいた。
「三浦は執権の地位をねらっておるのじゃよ」
「まさか」
時頼が信じないと、景盛はあることないこと讒言(ざんげん)し始めた。
「実は、公暁をけしかけて実朝公を暗殺したのは、三浦なんじゃよ」
「宗尊親王に邪心を抱かせたのも、三浦なんじゃよ」
「三浦光村は、以前追放した藤原頼経を鎌倉に呼び戻ろうと画策しておるんじゃよ」
また景盛は、子で評定衆の義景(よしかげ)、孫で上野守護の泰盛もけしかけた。
「三浦をこのままにしておけば、いずれ安達にキバをむいてくることであろう。攻め滅ぼされる前に、こちらから攻め滅ぼすのじゃ!
それ行けぇ!」
同年六月五日、危機を感じた泰盛は、先鋒として三浦泰村邸を攻囲、気が進まなかった時頼もたまらず援軍を出し、泰村邸は炎上、泰村は頼朝の遺影のあった法華堂に逃れ、そこで一族五百余名とともに心中してしまった(宝治合戦・三浦氏の乱)。
ここに三浦氏は滅亡し、安達氏は筆頭御家人として確固たる地位を築き上げたのである。
翌年、景盛は安心して死んだ。
その五年後、義景も没し、泰盛が筆頭御家人安達氏当主を継承した。
泰盛は、康元五年(1256)に評定衆に入閣、引付頭人(ひきつけとうにん。引付衆の長)を兼ね、六代執権長時(ながとき)・七代執権政村(まさむら)・八代執権時宗を補佐、建治二年(1276)には上野守護に加え、肥後守護も兼任した。
「威勢先祖ニ越エテ人多ク随キ」
つまり泰盛は、安達氏歴代中、最高の栄華を極めたわけである。