2.御内人代表・平(長崎)氏 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2004>2.御内人代表・平(長崎)氏
|
長崎氏の本姓は平氏である。
五月人形将軍・平維盛(たいらのこれもり。「ウシ味」参照)の弟の資盛(すけもり)の曽孫(そうそん。または子)・盛綱(もりつな)が、伊豆田方郡長崎郷(静岡県伊豆の国市)を領して長崎氏を称したのが始まりだという。
平 頼綱 PROFILE | |
【生没年】 | ?-1293 |
【別 名】 | 平禅門・果円 |
【出 身】 | 相模国(神奈川県) |
【本 拠】 | 鎌倉経師ヶ谷邸'(神奈川県鎌倉市) |
【職 業】 | 武将(御内人) |
【役 職】 | 内管領・侍所所司 |
【 父 】 | 平盛綱(平資盛子孫?) |
【 妻 】 | 北条貞時乳母 |
【 子 】 | 平宗綱・飯沼資宗 |
【主 君】 | 北条時頼・北条時宗・北条貞時ら |
【仇 敵】 | 安達泰盛・北条貞時 |
【没 地】 | 鎌倉経師ヶ谷邸(神奈川県鎌倉市) |
文暦元年(1234)、盛綱は、得宗の家令(執事)に就任する。
つまり、後に内管領と呼ばれる筆頭御内人になったわけである。
盛綱は、三代執権・泰時、四代経時(つねとき)、五代時頼に仕えた後、建仁二年(1250)以前に没した。
平頼綱は、この盛綱の子とされている。
頼綱は執権・時宗に信頼され、妻が時宗の子・貞時(さだとき)の乳母になったことにより、文永六年(1269)以前に内管領及び侍所所司(しょし。事実上の防衛庁長官)に就任した。
また、事実上の幕府の最高議決機関「寄合(よりあい)」にも参加し、幕政にも口出しするようになった。
寄合には、御家人代表として泰盛も参加していた。
御家人は将軍の家来であるが、御内人は将軍の家来の得宗の家来、つまり陪臣である。
泰盛は、そんな身分違いの頼綱と同席することはおもしろくなかったであろう。
「陪臣の分際で政治に口出ししやがって!」
一方、頼綱から見れば、御家人の泰盛は血縁ではない。部外者である。外様である。
「外様の分際で政治に口出ししやがって!」
御家人・泰盛と御内人・頼綱。
両者の対決は、起こるべくして起こるのであった。