5.そして、霜月騒動

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プロ野球再編問題
1.御家人代表・安達氏
2.御内人代表・平(長崎)氏
3.過激僧・日蓮
4.ヤミ金融の暗躍
5.そして、霜月騒動

 泰盛は幼君貞時に会いに行った。
「なんじゃ、じいじ」
 泰盛は訴えた。
「若様。今、御家人たちは貧乏しております。御内人から不当にお金を吸い取られて、みんな困っております。御家人にお金がなければ、戦うことはできません。戦えなければ、軍事国家である幕府は終わりです。滅亡です。若様。どうか、御家人たちを助けてください! 幕府を救ってください!」
 貞時は聞いた。
「で、いったいどうすれば、御家人たちは助かるのじゃ?」
徳政令を出すんです! そうすれば、御家人たちの借金は、すべてチャラになるんです!」
 貞時は首をかしげた。幼君にはまだそれが何を意味するものか、分からなかった。
「それって、いいこと?」
「いいことですよ! 御家人たちは、涙を流して喜ぶことでしょう!」
 貞時は許可した。
「いいことなら、やってもいいんじゃな〜い」
「ありがたき幸せ!」
 泰盛は深々と頭を下げると、さっそく帰宅して徳政令の作成にかかった。
 もちろん、頼綱には内緒である。
「ヤツには事後報告すればいいのだ」

 が、このことはすぐに頼綱の耳に入った。
 何しろ貞時の乳母は頼綱の妻である。
「あなた。泰盛殿がトクセーレーとかいう法律を作り始めたようですよ」
「トクセーレー? なんだそれは?」
「ええ。何でも借金をチャラにする法律なんですって」
「借金をチャラ!」
 頼綱は飛び上がらんばかりに驚いた。
「そっ、そんなもん出されては、今まで貯め込んできたカネがすべて水の泡になるではないか! 絶対に認めないぞ!」

 頼綱泰盛に抗議しに行った。泰盛邸は鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう。神奈川県鎌倉市)の南西、甘縄(あまなわ。現在の甘縄神明宮付近)にあったが、松谷にも別邸があったという。
 応対したのは、泰盛の子・宗景
(むねかげ)
「父は忙しいので、今はお会いできません」
「忙しいのは、徳政令を作っているからであろう?」
 宗景はニヤリとした。
「おやおや。御存知でしたか」
「ダメだ! そんな借金をチャラにする法律! 発令してはダメだ!」
御家人を救済するためです。それにもう、得宗
(貞時)の許可もいただきましたし」
「おれがダメと言ったらダメだ!」
 反対する頼綱を見て、宗景は首をかしげた。
「あれ? 得宗がいいとおっしゃられているのに、内管領のあなたがダメと言ってダメになったら、内管領のほうが得宗よりも偉いってことになりますよね? そうなんですか?」
「……」
 頼綱は黙ってしまった。結局言い返せずに引き上げてしまった。

 自邸に戻っても、頼綱はいらだっていた。
「このままでは、御内人たちは無一文になってしまう……」
 長男の宗綱
(むねつな)と次男の飯沼資宗(いいぬますけむね)が変に思って父に聞いた。
「何かあったんですか?」
 頼綱はある決心をした。
「二人とも、ちょっと来い」
 宗綱と資宗を秘密の蔵に案内したのである。

 秘密の蔵にはカネが満ち満ちていた。
 二人は目を見張った。
「す、すごい!」
「いつの間にこんなに!」
「毎日毎日少しずつ、おれが貯め込んでいたんだ。お前たちは、このカネが全部なくなるのを、許せると思うか?」
 二人はそろって勢いよく首を横に振った。
 頼綱は命令した。
「だったら、このカネを武士たちにばらまくのだ!」
 二人は駄々っ子のように嫌がった。
「そんな、もったいない〜」
「いったい何のために〜。ばらまくくらいなら、ボクにくれ〜」
「やかましい! ばらまかなければ、すべてのカネがアワと化すのだ! 泰盛を攻めるのだ! 泰盛を討つために、御内人御家人も、みんな味方につけちまうのだっ! 安達を討っておれたちが天下を取れば、これに倍増するカネが還ってくるではないかっ!」

 頼綱親子は有力武士たちの説得に回った。
泰盛の子・宗景は『曽祖父・景盛は実は頼朝公の隠し子だった』などと言い出し、源氏を名乗り始めています。将軍位もねらっているそうですよ」
泰盛源氏の重宝・鬚切丸
(ひげきりまる)を手元に置いているそうですよ。将来の宗景将軍に授けるために」
実朝公の未亡人・八条禅尼
(はちじょうぜんに)も宗景将軍成立を後押ししているそうですよ」

 御内人には同調する者も多かったが、御家人はそうたやすく惑わされなかった。
内管領殿は安達に反感を持っておられるから、そのように悪く言われるのであろう」
「そんなことありませんて! 信じてください! 私は事実しか申しませんよぉ〜ん」
「ふん。信じられないな」
「だったら、この菓子箱を信じていただきたい」
 ここで頼綱、用意していた奥の手を差し出す。
「菓子箱?」
 差し出されたそれを御家人が開けてみると、うれしいことに借金帳消しの証文が入っていた。
「こ、これは!」
 頼綱、その上にすかさず現ナマを置く。
「今ならこれも付いてますよ。まだ不満? はい、もうひと山、追加!」
「おお! 壮観〜」
「これで、信じていただけますかな?」
「し、信じるしかないではないか……」
 これには多くの御家人たちが撃沈された。

 頼綱、今度は幼君貞時の御所に参上。
「なんじゃ、小じいじ」
 頼綱は訴えた。
「若様。今、御内人たちは困惑しております。御家人から不当に借金の破棄を言い渡されそうで、みんな困っております。御内人にお金がなければ、仕事をすることはできません。仕事ができなければ、平和国家になった幕府は終わりです。滅亡です。若様。どうか、御内人たちを助けてください! 幕府を救ってください!」
 貞時は聞いた。
「で、いったいどうすれば、御内人たちは助かるのじゃ?」
徳政令を止めるために安達泰盛を討つんです! そうすれば、御家人たちの借金は、すべてチャラにはなりません!」
 貞時は首をかしげた。幼君にはまだそれが何を意味するものか、分からなかった。
「それって、いいこと?」
「いいことですよ! 御内人たちは、涙を流して喜ぶことでしょう!」
 貞時は許可した。
「いいことなら、やってもいいんじゃな〜い」
「ありがたき幸せ!」
 頼綱は深々と頭を下げると、さっそく帰宅して戦闘準備にかかった。

 が、このことはすぐに泰盛の耳に入った。
 何しろ貞時の母は泰盛の妹
(または娘)である。
「大変です! 内管領徳政令発布に反対して安達を討つと!」
「こしゃくな! こっちこそたたいてくれる!」
 泰盛も戦の準備を始めたが、どういうわけか多くの御家人が味方してくれなかった。
「どうした? 頼綱は反逆者ぞ!」
 御家人たちは口々に言った。
内管領はすでに得宗の許可を得ています。安達攻めを御命令されたんです。ですから我々は、内管領ではなく、入道様、あなた様を攻撃しなければなりません」
「バカな!」
 泰盛は歯ぎしりした。
得宗は我が妹
(または娘)の子ぞ! 安達家は得宗家代々の外戚ぞ! その得宗が安達攻めを許可するはずがない! よし、そういうことなら――」

 十一月十七日、泰盛は塔ノ辻へ向かった。
 塔ノ辻とは、小町大路と横大路の交差点付近、将軍得宗の館がある近くである。つまり彼は、得宗・貞時をさらおうとしたのであろう。
得宗さえ手に入れれば、すべての武士は安達に味方する!」

●霜月騒動の主要死亡者●
死亡者 別名・官職・関係
安達泰盛 陸奥入道・前秋田城介
安達宗景 秋田城介・泰盛の子
安達長景 美濃入道・泰盛の弟
安達時景 城大夫判官・泰盛の弟
安達重景 城五郎左衛門入道・泰盛の弟
安達宗顕 城太郎左衛門尉・泰盛の甥
安達義宗 三郎二郎・泰盛の甥
藤原相範 刑部卿・将軍側近の儒学者
大曽根宗長 前上総守・泰盛の支族
大曽根義泰 左衛門入道・泰盛の支族
伴野長安 出羽守・小笠原氏当主・泰盛の姻族
芦名頼連 対馬守・三浦氏一族
伊東三郎左衛門 石見守・伊豆の豪族
足利上総三郎 越前守? 吉良満氏?
二階堂行景 懐島隠岐入道・引付衆
武藤景泰 太宰少弐・引付衆
殖田泰広 又太郎入道・大江広元の子孫
小早川三郎左衛門尉 土肥氏一族
天野景村 和泉六郎左衛門尉・工藤氏一族
伊賀景家 筑後伊賀四郎左衛門尉
足立直元 太郎左衛門尉・武蔵の豪族

 当然、頼綱もそのくらいのことは心得ていた。
「させるか!」
 待ち伏せて泰盛勢を襲撃したのである。
 泰盛は、迫り来る無数の矢を白刃で弾き飛ばしながらわめいた。
「邪魔をするな!」
 頼綱は反論した。
「邪魔ではない! 得宗を守るためだっ! 貴様は得宗をさらいに来たのであろう!」
「……」
「図星ではないか! 聞いたか、みなの者! 泰盛は反逆者じゃ! 謀反人泰盛を討てぇ!」
「わぁ〜!」
 大勢の武士たちが太刀を振り上げて泰盛に襲い掛かる。
 が、泰盛は名うての武者である。
「お命ちょうだ〜い!」
「あげない!」
「拙者の出世のために死んで〜!」
「お前が死ね!」
「入道様、今度は私と勝負!」
「しない!」 
 泰盛は、群がる敵を押し退け斬り伏せ蹴
(け)倒すと、ついに貞時の館へ乱入した。
「若様! じいじが迎えに参りましたぞ!」
 が、すでに貞時は、頼綱の手の者によって脱出していたのである。

 外で頼綱が命令した。
「バカめ! 得宗将軍もすでに安全なところに移動させているわ!」
 頼綱得宗御所に 火矢を放たせた。
 火は瞬く間に燃え広がり、得宗御所は炎上、将軍御所にも燃え移った。
 泰盛は太刀をぶち折って悔しがった。
「無念だが、これで勝ち目はなくなった」
 あきらめた泰盛は、一族の者五十人とともに自害して果てたのである。享年五十五歳。

 頼綱は、泰盛が死んでからも、追討の手を緩めなかった。
泰盛に味方した者を皆殺しにしろ!」
 この騒動で泰盛に味方して自殺した者や殺された者は、五百人に及んだという。

  このほか、泰盛の娘婿・北条顕時(ほうじょうあきとき。金沢顕時。金沢文庫管理人)下総へ流刑にされたほか、泰盛の親類で評定衆を務めていた長井時秀(ながいときひで)・長井宗秀(むねひで)・宇都宮景綱(うつのみやかげつな)などが失脚した。

 霜月騒動の余波は全国に飛び火した。
 九州では、肥後守護代
(副知事。守護泰盛)・安達盛宗(もりむね。泰盛の子)が武藤景資(むとうかげすけ。少弐盛氏)と結んで反乱を起こしたが、筑前守護・武藤(少弐)経資(つねすけ)によって平定されている(岩戸合戦)

*               *               *

 霜月騒動後、頼綱は権力を握ったが、正応六年(1293)四月二十二日、成長した得宗貞時によって滅ぼされた(平禅門の乱・平頼綱の乱)
 永仁五年(1297)三月六日、貞時は御家人を救済するため、徳政令を発令している
(永仁の徳政令)

[2004年8月末日執筆]
参考文献はコチラ

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