1.鬼退治 | ||||||||||||||
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亭子院は平安京左京七条三坊(京都市下京区)にあった宇多法皇(「天皇家系図」参照)の離宮(別荘)である。
もとは宇多法皇の女御(にょうご。天皇の側室)で、寛平九年(897)醍醐天皇即位とともに皇太夫人(こうたいふじん)になった藤原温子(ふじわらのおんし。「2004年10月号 スト味」参照)の邸宅「東七条宮(ひがししちじょうのみや)」であったが、家主は延喜七年(907)に没していた。
(ああ、温子が逝(い)ってもう四年か)
宇多法皇はひざの上の愛猫をなでながらため息をついた。
昌泰三年(900)以降、宇多法皇の近親者は相次いでこの世を去っていた。
生母・班子女王(はんしじょおう。「天皇家系図」参照)、女御・藤原胤子(いんし。「藤原北家系図」参照)、同・橘義子(たちばなのぎし。「橘氏系図」参照)らである。
また、近臣の両輪であった右大臣・菅原道真と左大臣・藤原時平もすでに鬼籍となっていた(「2008年2月号 受験味」参照)。
中古三十六歌仙 |
和泉式部・恵慶・能因・曽祢好忠 ・藤原実方・平定文・大江嘉言・藤原道雅 ・在原元方・藤原公任・藤原高遠・藤原義孝 ・藤原道綱母・藤原定頼・兼覧王・文屋康秀 ・菅原輔昭・安法・相模・赤染衛門 ・伊勢大輔・道命・藤原道信・清原深養父 ・源道済・増基・大江千里・大中臣輔親 ・馬内侍・紫式部・藤原長能・上東門院中将 ・在原棟梁・藤原忠房・大江匡衡・清少納言 →三十六歌仙(藤原公任選) |
「だーれだ?」
突然、宇多法皇の視界が真っ黒になった。
宇多法皇は吹き出し、後ろから視界を覆った手を払いのけた。
「こんなことをするのは伊勢(いせ)しかいないだろう」
「ばれたあ〜」
伊勢は三十六歌仙に列する女流歌人で、藤原継蔭(つくかげ。「藤原北家系図」参照)の娘。宇多法皇の更衣(こうい。天皇の側室。女御の下の身分)で、皇子某を生んでいた。恋多き女で、藤原時平・仲平(なかひら)兄弟と付き合っていた時期もあった。
「何よ、ほうけちゃって!どうせ京極(きょうごく)ちゃんのことでも考えてたんでしょー?」
京極ちゃんとは、京極御息所(みやすんどころ)、藤原褒子(ほうし。時平の娘)のことである。
時平は初め褒子を醍醐天皇に嫁がせようとしていたが、宇多法皇が見つけ、見初め、横取りしてしまったのであった。彼女は京極河原院(かわらのいん。左大臣源融の旧邸)に囲われ、雅明親王(まさあきら)・載明(としあきら)親王・行明(ゆきあきら)親王を生んでいる。
「図星ぃ〜、図星ぃ〜」
「違う!考えていたのは褒子のことではなく、温子だ!」
これには伊勢の顔が暗転した。
時平一家の短命が気になったのである。
「ちまたのうわさは本当かしら?」
「何がだ?」
「菅家(菅原道真)のたたりとかいう――」
「そんなことはない!」
宇多法皇は激しく否定した。
「朕(ちん)は誰よりも菅家を知っている!菅家は断じて死して悪鬼になるようなヤツではない!鬼など朕は信じない!信じたくはない!鬼などというものは現実には存在しないものなのだ!人間の弱い心の中にだけ存在する架空のバケモノなんだっ!」
藤原忠房(ただふさ)がうめくように提案した。
「ならば、鬼退治といきますか」
忠房は宇多法皇の腹心で、芸術芸能部門担当である。藤原京家出身で(「藤原京家系図」参照)、中古三十六歌仙に列する歌壇のドンであり、雅楽の舞楽「延喜楽(えんぎらく)」を作舞した舞踊家であり、舞楽「胡蝶(こちょう)」を作曲した音楽家でもあった。
宇多法皇の顔が明るくなった。
「さては何かおもしろいことを思いついたようだな?」
「鬼殺しといえば、酒です。近々、ここの水閣(すいかく。池べりの楼閣)が完成しますので、完成式典の折に臣下で一番の大戸(たいこ。酒豪)を決める闘酒会を開いてはいかがかと?」
「ほう」
宇多法皇は興味を持った。
忠房は酔ったように説いた。
「今まさに天空のかなたより酒の神が舞い降りました!前代未聞の大戸群雄割拠時代の幕開けです!公卿百官の有象無象が弱肉強食、悪戦苦闘し、酒池肉林で狂喜乱舞するのです!」
「うほほー!」
宇多法皇は興奮した。
「何だか意味が分からんが、そんなに飲むヤツがいるのか?飲むヤツってのは、いったい何升ぐらい飲むのだ?」
「升?そんな単位ではございませーん」
「まさか、斗か?」
「いえいえ。石に及ぶといえども、水を砂に注ぐがごとし!」
「コクッ!!」
宇多法皇は飛び上がらんばかりに仰天した。
「にゃーん!」
いや、ひざの猫が逃げたところを見ると、実際に飛び上がっていたのかもしれない。
宇多法皇はワクワクした。いても立ってもいられなくなった。
「やるぞ!早く見たいぞ、闘酒会!忠房、名うての酒豪を集めよ!朕の前で日本一の大戸を決めようではないか!」
「了解!」