5.出家!山名義理!! | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2011>5.出家!山名義理!!
|
明徳三年(1392)正月四日、内野合戦における論功行賞があった。
これによって、山名氏清らの所領十一か国は、それぞれ以下の諸将のものとなった。
山城 山名氏清 → 畠山基国
和泉 山名氏清 → 大内義弘
丹波 山名氏清 → 細川頼元
丹後 山名満幸 → 一色満範
但馬 山名氏清 → 山名時煕
因幡 山名氏家 → 山名氏家
伯耆 山名満幸 → 山名氏之
出雲 山名満幸 → 京極高詮
隠岐 山名満幸 → 京極高詮
美作 山名義理 → 赤松義則
紀伊 山名義理 → 大内義弘
このうち、氏清とともに戦っていた氏家が因幡守護を取り上げられずにすんだのは、上洛して足利義満に猛烈に謝罪したからだという。
それに比べ、義理は戦闘に参加していなかったにもかかわらず、領国をすべて没収されてしまった。
「本領安堵の約束だったじゃないですか!」
義理は抗議したであろうが、細川頼之に、
「そんな約束しましたかな?最近、健忘症でねえ〜」
と、すっとぼけられたため、いじけて帰国。後任守護の大内義弘に攻められ、淡路へ落ちて出家してしまった。
一方、敗走した山名満幸は丹後へ帰って挙兵しようとしたが兵が集まらず、これも出家するしかなかった。
後に彼は謀反のうわさを流され、申し開きのためか上洛したところ、五条高倉(ごじょうたかくら。下京区)で殺害されている。
時に応永二年(1394)三月十日。享年不明。