5.哀絶!氏清の妻!! | ||||||||||||||
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和泉堺に山名氏清戦死の報告が届いたのは明徳三年(1392)元日の昼頃であった。
「昨日、朝から京内で合戦があり、昼までに御大将討たれさせたまう。また、小次郎殿、高義殿、小林殿、山口殿らことごとく討ち死にしたまう」
「うそーーー!」
氏清の妻は絶叫した。号泣した。
かと思ったら、至福の笑みで短刀を抜いた。
「あんた……。うちもすぐに逝きますわ」
「なりませぬっ!」
お付きの女房・難波三位(なにわのさんい)が、すかさず氏清の妻から短刀を取り上げた。
氏清の妻は騒いだ。
「いやー!死なせてー!死にたいのぉー!!」
難波三位はしかりつけた。
「御子息たちはみな逃げたというではありませんか!そして紀伊の山名の長老・義理さまも健在です!まずはお殿さまの敵討ちのために、義理さまを頼りましょう!」
そういうことで一行は紀伊へ落ちることになった。
が、その途中、和泉日根野(ひねの。大阪府熊取町)で休息していると、氏清の妻の輿(こし)の中でガサガサと音がした。
「むう〜ん」
難波三位は嫌な予感がした。
「もしや……」
ハッとして簾(すだれ)を上げて輿の中をのぞいてみると、案の定、氏清の妻は胸に短刀を突き立てていた。
「ギャー!誰か来てー!御台さまがー!御台さまがあー!」
氏清の妻は一命を取りとめた。
紀伊根来(ねごろ。和歌山県岩出市)に移って養生することになった。
が、意識が戻っても、彼女は食べ物も飲み物も摂らず、薬すら飲もうともしなかった。
「かまわないでください。あの人のいないこの世の中に、もはや未練はありませんから」
「気弱なことをおっしゃらないでください!御台さまにはまだやることがおありなのです!義理さまのもとで、お殿様の敵討ちをっ!」
「敵討ちをしたところで、あの人はもう帰ってきません。うちの望みはあの人の敵討ちではありません。あの人そのものなのです!うちは一刻も早く、あのひとのところに逝きたいだけなのです!」
氏清の妻は日に日にやせ衰えていった。
事態を聞きつけて逃亡中の山名時清ら氏清の息子たちが駆けつけてきた。
「母に会わせてください」
難波三位は息子たちが来たことを氏清の妻に知らせたが、彼女は猛烈に嫌がって会おうとはしなかった。
「息子たちはあの人を裏切りました。自分たちだけ助かろうと、あの人を置いてけぼりにしたのです!ああっ!養子の小次郎(煕氏)はあの人に殉じたというのに、何という情けない息子たちでしょうか!そのような薄情者たちに会いたいとは思いません!汚らわしい!追い払いなさいっ!」
時清らは必死で弁明した。
「逃げたのにはわけがあったんです!あの状況では逃げるしかなかった!」
「そうですよ!すべては再起を果たすためですよ!」
時清らは何とか母に会おうとしたが断られ続けたため、むなしく落ちていった。
一月十三日の暮れ、氏清の妻は逝った。
「御台さま?」
かたわらにいた難波三位はしばらく気づかず、氏清の妻を揺さぶってみた。
が、どんなに揺さぶっても、彼女はもう何の反応も示すことはなかった。
「御台さまー!」
難波三位は叫んだ。氏清の妻をたたいた。上下逆になるほど激しく揺さぶった。
すると、一枚の紙がハラハラと舞った。
それは、彼女がずっとずっと握り締めていた紙であった。
難波三位はそれを拾って広げてみた。
それには二首の歌が記されていた。
一首は内野の戦の前日、氏清が山城八幡(やわた。京都府八幡市)の陣から妻に贈った歌であった。
取り得ずは消えぬと思へあづさ弓引きて帰らぬ道芝の露
もう一首はこれに対する妻の返歌であった。
沈むとも同じく越えん待て暫(しば)し苦しき海の夢のうきはし
「う……。うううっ!」
難波三位は、たまらなかった。
「わおあーーーーー!!」
彼女は、ほか二名とともに川へ身を投げに行った。
[2011年1月末日執筆]
参考文献はコチラ
※ 乱の経緯を記した『明徳記』によれば、氏清の妻は明徳三年に死んだように書かれていますが、実際の没年は三年後ともされています。