4.言訳!藤原内麻呂!!

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自衛隊が暴走することはないのか?
1.発病!平城天皇!!
2.病臥!嵯峨天皇!!
3.策動!藤原仲成!!
4.言訳!藤原内麻呂!!

●薬子の変主要処罰者●

処罰者 身分・関係 処罰
平城上皇 太上天皇。反乱首謀者 出家→恭順
藤原薬子 尚侍。平城上皇の愛人 解任→自殺
藤原仲成 参議・大蔵卿・右兵衛督・伊勢守
平城上皇側近。薬子の兄。
左遷(佐渡権守)
→射殺
藤原真夏 参議・按察使・右近衛中将・伊予守
平城上皇側近。内麻呂の長男。
左遷
(伊豆権守→備中権守)
多 入鹿 参議・左京大夫・相模守
平城上皇側近。
左遷(讃岐権守)
高岳親王 皇太子。平城天皇第三皇子。 廃太子
阿保親王 平城天皇第一皇子。 左遷(大宰員外帥)
藤原山人 刑部卿。仲成の兄。 左遷(駿河守or権守)
藤原安継 周防守。仲成の叔父 左遷(薩摩権守)
藤原貞本 大蔵大輔。縄主の子 左遷(飛騨権守)
紀 田上 船守の子。 左遷(佐渡権守)
大中臣常麻呂 周防守。 左遷(備前権守)
※ 藤原葛野麻呂・藤原真雄は上皇を諫言したため許され
、文室綿麻呂は坂上田村麻呂の進言で逆に昇進している。

 薬子の変後、藤原式家は没落した。
 藤原緒嗣は後に左大臣まで昇進するが、政権を担ったのは藤原北家冬嗣流であった。
 後に摂関政治を現出する藤原良房基経兼家道長頼通らは、みなこの系統である
(「北家系図」参照)

 薬子の変の二年後の弘仁三年(812)十月六日、右大臣藤原内麻呂は五十七歳で没した。
 これ以前、内麻呂は不空羂索観音像
(ふくうけんじゃくかんのんぞう・ふくうけんさくかんのんぞう)と四天王像(してんのうぞう)を造り、藤原氏の氏寺である興福寺(奈良県奈良市)に収めるよう、冬嗣に託した。これが現在、興福寺南円堂(なんえんどう)にある不空羂索観音像と四天王像の原型である(現存するものは鎌倉時代の再興で国宝)
「不空羂索観音はすべての衆生を救ってくださるありがたい観音様だ。善人も、悪人も、偽善者も、すべてだ」
 冬嗣は感心した。
「父上は善人です。悪人や偽善者まで救う必要はないではありませんか。フフフ。父上はお優しいのですね。――それとも何か、やましいことでもあるのですか?」
 内麻呂は笑った。
「あるわけがないであろう。私は善の権化だ。――もっとも真の善の権化であれば、自分でそれを言うことはないであろうな」
「つまり、父上の善行は偽りであったと?」
「いいや!私は全うに生きてきた!」
 内麻呂は激しく否定した後、おいおい泣いた。号泣しながら言い訳をした。
「私はただ、私から妻を奪った柏原帝が憎かっただけだ。妻が去っていった日、お前と真夏はいつまでもいつまでも泣いていた……。私は表向きにはニコニコして、お前たちを慰めながらも、影でお前たちの何倍も何十倍も何百倍も泣いていた……。私は生涯であのときほど、つらい悔しい思いをしたことはなかった……。私はいつかこの恨みを晴らしてやろうと強く心に誓った……。私は自分に言い聞かせた。この悲劇は、藤原北家が天皇家よりも格下だから起こったことなんだと。北家が天皇家をしのぐようになれば、このような悲しみは二度と味わうことはないのだと……。それからの私は、表向きは善人を装いながら、心の中では悪鬼になった。天皇家をねじ伏せるためには、まず、対抗馬をすべて追い落とさなければならなかった。私はそのためには手段を選ばなかった。京家を倒し、南家を倒し、そして最後に式家を倒し、ついに北家の独壇場を築き上げることに成功したのだ!もはや我が北家が天皇家をしのぐのは時間の問題であろう!三代後の北家と天皇家の関係を見てみよ!その頃には天皇家のほうが北家に対して悔しい思いをしているであろうな!ハハハハハハ!見えるのだ!私には見えるのだっ!妻よ!百済永継
(くだらのながつぐ・えいけい)よ!成った!成ったぞ!私の三十年来の仇討ちは、今ここに成就したのだっ!ハハハハハハ!」


※ 当然のことながら、藤原緒嗣・藤原冬嗣、そして藤原良房らが編修した『日本後紀』には、内麻呂が黒幕だったことは一切記されておりません。同書には内麻呂と仲成の評伝がありますが、ありえないほど善と悪を極めています。

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