102.奈良味 基礎用語集

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恵美押勝(えみのおしかつ)の乱=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱
 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。恵美押勝)が孝謙(こうけん)上皇に対して起こした反乱。764太師(太政大臣)・藤原仲麻呂は、孝謙上皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)を除こうとして反乱を起こすが、吉備真備(きびのまきび)の采配(さいはい)や藤原式家(しきけ)の人々の活躍などにより近江にて敗死。これにより、仲麻呂が擁していた淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇は称徳天皇として再び即位、道鏡が専横した。
日朝味6

皇后(こうごう)←大后(たいこう・たいごう・おおきさき)
 天皇の正妻。大王の正妻は大后。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)に称号が定着し、大后は皇太后の略称となる。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。

興福寺阿修羅像(こうふくじあしゅらぞう)
 興福寺にある仏像。八部衆像の一。734造立。脱乾漆像。高さ一メートル五十三センチ。顔が三つで腕が六本あり、顔がいいので人気がある。

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読みは同じだが、漢字は役所によって異なる。八省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、寮は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、衛府は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、大宰府は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)など。

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)上皇←孝謙天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 第四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。母は藤原光明子(こうみょうし。光明皇后)。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、不和になって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ。藤原仲麻呂)の乱を鎮圧し、天皇に重祚(ちょうそ)、西大寺を建立し、百万塔(ひゃくまんとう)を製作、寵愛(ちょうあい)する道鏡(どうきょう)を大臣禅師、765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)、766法王(ほうおう)とし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、皇嗣を定めずに没した。奈良味
女帝味

聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇
 (701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
暴発味辞任味

太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ・だいじょうだいじんぜんじ)
 称徳天皇・道鏡政権における最高責任者。太政官の最高官。太政大臣に準じた職で、765〜766に唯一道鏡だけが任じられた。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗大本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。大勧進行基(ぎょうき)。開基良弁(ろうべん)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。

省 名 主な職掌
中務(なかつかさ)省 天皇の重要事務
式部(しきぶ)省 学校管理・文官人事
治部(じぶ)省 冠婚葬祭・外交
民部(みんぶ)省 民政
兵部(ひょうぶ)省 軍事・武官人事
刑部(ぎょうぶ)省 刑罰・訴訟
大蔵(おおくら)省 出納・宝物管理
宮内(くない)省 宮中庶務

八省(はっしょう)
 律令制において太政官に直属する八つの官庁の総称。八省の名称および職掌)は右のとおり。⇒古代官制

道鏡(どうきょう)弓削(ゆげ)道鏡
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。義淵(ぎえん)・良弁(ろうべん)の弟子になり、孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。奈良味女帝味

舎人親王(とねりしんのう)=舎人皇子(とねりおうじ・とねりのみこ)=崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)
 (676-735) 皇族。知太政官事(ちだいじょうかんじ)。天武(てんむ)天皇の皇子。母は天智天皇の皇女・新田部皇女(にいたべおうじょ)。淳仁(じゅんにん)天皇らの父。720藤原不比等(ふじわらのふひと)没後に知太政官事に就任、『日本書紀』を完成させ、新田部(にいたべ)親王と共に皇族の長老として政界で重きをなし、729長屋王の変で王の尋問に当たった。

奈良(なら)
 現在の奈良県奈良市。県庁所在地。ユネスコ世界文化遺産。710元明天皇による平城遷都から784桓武天皇による長岡遷都まで日本の帝都として繁栄(一時期は恭仁・難波・紫香楽が都)、810薬子の変後は寂れたが、旧外京では東大寺や興福寺を中心に門前町が形成され、江戸時代には奈良奉行が置かれ、幕府直轄地になった。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

奈良時代(ならじだい)
 (710-784) 平城京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。710元明(げんめい)天皇の平城京遷都に始まり、律令国家の最盛期にあたり、天平文化が栄えた。784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都で幕を閉じたが、784-794長岡京時代も含む場合もある。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って挙兵し、近江で敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
辞任味日朝味6

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
 740大宰少弐・藤原広嗣が大宰府で起こした古代九州最大の反乱。広嗣は橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問・玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を要求して大宰府で挙兵、軍を三つに分けて北九州へ向かうが、大野東人(おおののあずまひと)率いる征討軍に関門海峡を破られて九州上陸を許し、板櫃川(いたびつがわ)の戦いで大敗、新羅(しらぎ)亡命を目指したが失敗し、捕らえられて斬殺(ざんさつ)された。
暴発味

藤原百川(ふじわらのももかわ)←藤原雄田麻呂(おだまろ)
 (732-779) 公卿。参議。式家・宇合(うまかい)の子。母は久米若女(くめのわかめ)。広嗣(ひろつぐ)・良継(よしつぐ)らの弟。種継(たねつぐ)の叔父。称徳(しょうとく)天皇・道鏡(どうきょう)政権で台頭し、天皇没後に藤原永手(ながて)らとともに光仁(こうにん)天皇を擁立、皇后・井上内親王と皇太子・他戸(おさべ)親王を退け、山部親王(やまべしんのう。後の桓武天皇)の立太子に尽力した。奈良味ヤミ味 

法王≦法皇(ほうおう)
 766称徳(しょうとく)天皇が道鏡(どうきょう)に授けた称号(法王)または上皇が出家した際の称(法皇・法王)。前者は770称徳天皇没後、道鏡の失脚により廃絶。後者の最初は899出家した宇多法皇。

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