1.雄略天皇の出兵 | ||||||||||||||
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雄略天皇は五世紀後半の大王である。倭王武と思われている(「非行味」{「継承味」「隕石味」参照)。
雄略天皇の時代、中国地方に吉備田狭(きびのたさ)という豪族がいた。
田狭は愛妻家で、いつも友人に妻・吉備稚媛(わかひめ)の自慢をしていた。
「私の妻は美人だ。世の中に私の妻以上に美しい女はいまい」
このうわさを雄略天皇が聞きつけた。稚媛に会ってみたくなった。
雄略天皇は田狭・稚媛夫妻を呼びつけた。
そして、田狭の言葉が偽りではなかったことを知った。
(本当に美人だ)
雄略天皇は稚媛に見とれた。心奪われた。そして、欲しくてたまらなくなった。
でも、彼女は田狭の妻である。
(こいつさえいなければ――)
雄略天皇は邪心を抱いた。いいことを思いついた(悪いことだが)。田狭にこんな命令した。
「新羅に不穏な動きがある。同盟国百済とともにこれを攻めよ」
口実なんて何でもよかった。田狭を稚媛からひきはがすことができれば、それでよかった。
田狭は将軍として新羅攻めに向かった。当分帰ってこなかった。
雄略天皇はその間に稚媛をくどき落として自分のものにした。
田狭は戦地で妻を寝取られたことを知った。彼は激怒した。
「そういうことだったのか! それなら――」
田狭は新羅と結んで反乱を起こした。
敵は強大になった。百済は窮地に陥った。九州も緊迫した。
「えらいことになった」
雄略天皇は後悔した。自分の下心が思いもよらぬ強敵を作り上げてしまった。
彼は田狭の子・吉備弟君(おときみ)を将軍とし、百済を救援させた。
(子が攻めてこれば、父は降伏するしかないだろう)
安易に考えたのである。
だが、田狭は渡海してきた弟君を出迎えて逆に誘った。
「おまえも父や新羅とともに倭(やまと)や百済と戦うのだ」
弟君は父に傾いた。
「そうしようかな」
しかし、謀反になることを恐れたその妻・吉備樟媛(くすひめ)により、弟君は殺されてしまった。
またしても雄略天皇の新羅攻めは失敗に終わった。
雄略天皇はあきらめなかった。新たな将軍を送り込んだ。
今度は紀小弓(きのおゆみ)・蘇我韓子(そがのからこ)・大伴談(おおとものかたり)という三本立てである。
結果は散々だった。大伴談は戦死し、紀小弓は病死、蘇我韓子は味方とケンカして射殺されるなど、大敗を喫してしまった。
「なんてこった」
雄略天皇は失意のうちに死んだ。
雄略天皇の後を継いだのは、太子の清寧天皇(せいねいてんのう)である。
清寧天皇は、なぜか生まれつき白髪で、かなりの変わり者だったという。
彼は在位五年四十一歳で没した。彼には妻子がなかったため、後継者がいなかった。もともと星川皇子(ほしかわおうし・みこ)・磐城皇子(いわきおうじ・みこ)という異母兄がいたが、清寧天皇即位以前に吉備稚媛にそそのかされて反乱を起こしていたため、二人とも殺してしまっていた。
こうして雄略天皇の血統は、二代で絶えてしまった。
* * *
『宋書』倭国伝にある「倭王武の上表文」によれば、倭王済(允恭天皇?「震災味」参照)も高句麗攻めを計画していたが、まさに攻め込もうとしたときに急死してしまったとある。このとき、相次いで倭王興(安康天皇?)も没しているが、これもまた二代目の悲劇であろう。(『古事記』や『日本書紀』には安康天皇は継子の眉輪王(まゆわおう)に殺されたとある「非行味」参照)