2.大伴金村の出兵

ホーム>バックナンバー2002>2.大伴金村(おおとものかなむら)の出兵

不気味なジンクス
1.雄略天皇の出兵
2.大伴金村の出兵
3.物部尾輿の出兵
4.聖徳太子の出兵
5.天智天皇の出兵
6.藤原仲麻呂の出兵計画
7.豊臣秀吉の出兵
8.西郷隆盛の出兵計画

 大伴金村は五世紀末から六世紀初めにかけての最高権力者である。
 雄略天皇による新羅攻めの将軍の一人、大伴談
(かたり)の子で、雄略天皇没後、大連に就任して軍事を掌握(しょうあく)、武烈天皇(ぶれつてんのう)と継体天皇(けいたいてんのう)を擁立して威を張った(「 国境味」参照)

 継体天皇二十一年(527)、金村は、新羅の攻撃を受けた任那を救うため、六万の大軍を差し向けた。
 将軍は近江毛野
(おうみのけの)近江の武人である。
「何が何でも新羅を倒すのだ」
 金村は毛野を激励した。父が新羅攻めで戦死しているだけに、どうしても勝ちたかったのであろう。
「お任せください」
 毛野は新羅攻めのため九州に向かった。

 だが、新羅は先手を打った。九州の大豪族・筑紫磐井に手を回したのである。
「毛野の渡海を妨害してほしい。タダとは言わないよ。ほらほら」
 次から次へと積まれる珍しい異国の金品に目がくらんだ磐井は、乗った。
 磐井は北九州の要衝を抑え、毛野の軍を迎え撃った。そのため、毛野は渡海どころではなくなった。
 いわゆる「磐井の乱」である。

 金村大連・物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を援軍に送った。
 翌年、麁鹿火は筑紫国御井郡
(福岡県久留米市付近)にて磐井本隊を破り、磐井を斬殺(ざんさつ)、その子・葛子(くずこ)を降伏させた。

 戦後、毛野は渡海して新羅と戦ったが、新羅任那四村を奪われ、任那の不信を買ってしまった。失意の果ての帰国途中、対馬で病没している。
 こうして金村の朝鮮出兵もまた、失敗に終わった。

 金村自身は欽明天皇元年(540)、大連・物部尾輿(おこし)らに、
「継体天皇六年(512)に任那四県を百済に割譲した時、百済から賄賂
(わいろ)をもらったんじゃないか?」
 と、疑われ、責められて失脚した。三十年も前の外交問題をつつかれて追い落とされたのである。
 これが記録にある日本史上最古の汚職事件とされている
(「国境味」参照)

*              *              *

 継体天皇没後、安閑天皇(あんかんてんのう)と宣化天皇(せんかてんのう)天皇を推す大伴氏と欽明天皇を推す物部・蘇我氏の間で「辛亥の変(しんがいのへん)」なる政争が起こったとも考えられている。
 どちらにせよ、金村は破滅し、物部・蘇我氏がこれに取って代わったわけである。 

inserted by FC2 system