3.物部尾輿の出兵 | ||||||||||||||
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物部尾輿(もののべのおこし)は六世紀半ばの権力者である。
物部荒山(あらやま)の子で、物部麁鹿火没後に大連に就任、金村失脚後は唯一の大連として権勢を誇った。
仏教排斥派で、容認派の大臣・蘇我稲目(そがのいなめ)と対立、対外的にも強硬派で、欽明天皇(きんめていんのう)時代の何度かの朝鮮出兵は、彼の主導と思われる。
欽明天皇十四年(553)、新羅に攻められた百済が援軍を求めてきた。
翌年、尾輿らは援軍を送ったが敗れ、百済二十六代国王・聖明王(せいめいおう。聖王)は敗死した。
ちなみに聖明王は、538年(または554年)に日本に仏像・経典をもたらしたことで知られている(仏教公伝)。彼の死によって百済は衰退し、任那に対する影響力も弱まった。
欽明天皇二十三年(562)、新羅が任那に侵攻した。
尾輿らは大将軍・紀男麻呂(きのおまろ)を援軍として差し向けたが敗れ、副将軍・河辺瓊缶(かわべのにへ)は捕らえられ、任那は滅亡した。
尾輿の出兵は、いずれも失敗に終わったわけである。
同年、大伴狭手彦(さでひこ。金村の子)は高句麗を破ったとあるが、これは一時的なものであろう。
尾輿は欽明天皇と同じ頃に没している。晩年は蘇我稲目と政争を繰り広げていたが、横死ではなく自然死であろう。
尾輿の死後、大連にはその子・物部守屋が就任した。
守屋は父と同様、仏教を嫌い、仏像・経典などを燃やし、尼をいたぶって喜んでいたが、
「この、バチ当たりめが!」
怒ったライバル・蘇我馬子によって用明天皇(ようめいてんのう)二年(587)に滅ぼされてしまった(「イヌ味」参照)。
こうして物部氏もまた、二代のうちに滅んでしまった。