5.天智天皇の出兵 | ||||||||||||||
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天智天皇は大化の改新で知られる七世紀半ばの天皇である(「工作味」「ウソ味」参照)。
斉明天皇六年(660)、唐・新羅連合軍十三万人が海と陸から百済に侵攻、首都・扶余(ふよ。韓国忠清南道)を陥落させ、国王・義慈王(ぎじおう)や太子・隆(りゅう)らを唐へ連れ去ってしまった。ここに百済は滅亡したのである。
ところが、百済はまだくたばってはいなかった。
百済の旧臣・鬼室福信(きしつふくしん)が任存(にんぞん。韓国忠清南道大興)に立てこもって頑強に抵抗、日本に援軍を要請し、人質として来日していた義慈王の王子・余豊璋(よほうしょう)を呼び戻して国王に立てようと画策したのである。
「どうか百済復興に御助力を」
天智天皇(当時は中大兄皇子)は、百済救援を決断、母の斉明天皇(まもなく急死)らと九州へ下向し、筑紫(つくし。筑前+筑後)長津(ながつ。娜の大津。福岡市博多区)に本営を設置、救援軍が豊璋を百済に送って国王とした。
救援軍の将軍に任ぜられたのは、阿曇比羅夫(あずみのひらふ)・阿倍比羅夫らである。
天智天皇二年(663)、唐・新羅連合軍は、白村江(はくそんこう・はくすきのえ。錦江)下流にある豊璋の居城・周留城(するじょう)を攻囲、日本水軍はこれを救うべく唐水軍に襲い掛かった。
いわゆる白村江の戦である。
その結果、日本水軍は四度撃退され、船四百艘(そう)炎上という惨敗を喫した。
白村江は真っ赤に染まり、溺死(できし)者であふれ返ったという。
「だめだこりゃ」
残存日本軍は戦意を喪失、我先にと帰国した。
豊璋は高句麗へ亡命、周留城は陥落し、百済は二度滅びた(「亀虎味」参照)。
こうして天智天皇の朝鮮出兵も失敗に終わったわけである。
天智天皇は天智天皇十年(671)に近江大津宮(滋賀県大津市)で病没した。
近江朝廷を継いだのは、その皇子・大友皇子である。
弘文天皇元年(672)、大友皇子は叔父・大海人皇子と皇位を争って敗れ、自殺してしまった(壬申の乱)。戦後、大海人皇子は大津宮を廃し、翌年には飛鳥清御原宮(奈良県明日香村)で即位している。
こうして近江朝廷もまた、二代で滅びてしまったわけである。