6.藤原仲麻呂の出兵計画

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不気味なジンクス
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4.聖徳太子の出兵
5.天智天皇の出兵
6.藤原仲麻呂の出兵計画
7.豊臣秀吉の出兵
8.西郷隆盛の出兵計画

 藤原仲麻呂は大師(たいし。太師とも。太政大臣のこと)まで昇進した奈良時代の権力者である(「辞任味」「意地味」参照)

 天平勝宝七年(755)、で地方長官・安録山(あんろくざん)が、宰相・楊国忠(ようこくちゅう)を討つため反乱を起こした(安史の乱)。楊国忠は、皇妃・楊貴妃(ようきひ)の一族として増長していたという。
 安録山はの首都・洛陽
(らくよう。中国河南省)を攻略、皇帝・玄宗(げんそう)を追っ払い、翌年、大燕(だいえん)皇帝を自称した。このための国力は衰え、新羅に対する影響力も弱まった。

 天平宝字二年(758)、渤海に遣わされていた小野田守(おののたもり)が帰国し、の情勢を伝えた。
国内は大混乱。今こそ白村江での遺恨を晴らすべき時!」
 渤海とは、白村江の戦後まもなく滅んだ高句麗の遺民や、靺鞨人
(まっかつじん。ツングース系民族)らが建てた国である。
 神亀元年(727)の渤海使初来日以来、日渤両国は新羅と対抗するため親交を深めていた。
 仲麻呂は決断した。
「今こそ新羅を倒せる最高の好機である!」

 翌年、仲麻呂大宰府に行軍式(出兵具体案)を作らせ、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)の兄・船親王(ふねしんのう)を香椎廟(かしいびょう。香椎宮。福岡市東区)に派遣、祭神に新羅出兵計画を報告させた。香椎宮の祭神は、朝鮮出兵唯一の伝説的成功者・神功皇后である(「紙幣味」参照)
 次いで西国諸国に五百艘の軍船を三年以内に建造するように命じ、天皇親衛隊・授刀衛
(じゅとうえい。後の近衛府)を新設、金銭・開基勝宝(かいきしょうほう)、銀銭・大平元宝(たいへいげんぽう)、銅銭・万年通宝(まんねんつうほう)を発行してカネも工面、全国から在日新羅人を集め、従軍通訳も養成した。

 天平宝字五年(761)、兵四万人・水手(かこ)一万七千人・船数四百艘からなる遠征軍の陣容が発表された。
 節度使
(将軍)は、仲麻呂の子・恵美朝狩(えみのあさかり。藤原朝狩)百済国王の子孫・百済敬福(くだらのけいふく。百済王敬福)、天才軍師学者・吉備真備(「中国味」「ヤミ味」参照)の三人である。そして、出兵決行は翌年とされた。

 ところが、翌年も翌々年も、出兵が行われることはなかった。遠征準備が始まった年以降、藤原光明子(光明皇后。後援者)・藤原乙麻呂(おとまろ。弟)・藤原袁比良(えひら。藤原宇比良古。正妻)・大伴犬養(おおとものいぬかい。舅)・藤原御楯(みたて。婿)・石川年足(いしかわのとしたり。側近)・紀飯麻呂(きのいいまろ。側近)・巨勢堺麻呂(こせのせきまろ・さかいまろ。側近)ら、仲麻呂の関係者が次々と死亡し、外征どころではなくなってしまったからである。
「不吉な」
 まゆをひそめる仲麻呂自身にも、まもなく悲劇は訪れた。
 前女帝・孝謙上皇が妖僧道鏡のとりこになり、彼の言われるまま乞われるまま、何でも貢ぐようになってしまったのである。
 孝謙上皇は貢ぐものが少なくなると、仲麻呂の財産その他権限を取り上げて道鏡に与えるようになった
(「女帝味」参照)
「ちょっとぐらい、いいよね」
 恋ボケの孝謙上皇の行為には、遠慮も限度もなかった。

「いい加減にしろ!」
 度重なる女帝の驕慢
(きょうまん)に、仲麻呂はキレた。領国近江で兵を挙げてやった。
 いわゆる恵美押勝の乱である。
「余は権力者だ。兵を挙げれば味方する者はいくらでもいる」
 過信だった。仲麻呂につく者は、思いのほか少なかった。
「それなら、東国で兵を募ればいい」
 仲麻呂近江瀬田橋
(せたばし。滋賀県大津市)越前愛発関(あらちのせき。福井県敦賀市)突破を試みたが、どちらも失敗、近江高島(滋賀県高島市)で敗れ、琵琶湖上に逃れようとしているところを妻子・一族もろとも惨殺された。
 仲麻呂一家にもまた、悲惨な破滅が待っていたのである。

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