8.西郷隆盛の出兵計画

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8.西郷隆盛の出兵計画

 西郷隆盛戊辰戦争で活躍し、明治政府の参議となり、岩倉遣外使節出発後は留守政府の筆頭参議として力を持った権力者である。

 明治維新以降、日本は鎖国を続ける朝鮮に開国を求めていたが、朝鮮はこれに応じなかった。
 参議板垣退助は進言した。
「武力行使してでも朝鮮に開国させるべし」
 西郷もそれを考えていた。
「まず、自分が朝鮮に乗り込んで交渉に当たり、それでも応じなければ、出兵して強引に開国させては」
 西郷の意見に、板垣が賛成、参議江藤新平、同・後藤象二郎、同・大木喬任
(おおきたかとう)同・副島種臣らも賛同した。

 西郷は、平和的に事を解決しようとは考えていなかったであろう。
 もし、交渉がうまくいったとしても、無理を加え机をたたき席をけって強引に決裂させたに違いない。西郷は全国の不平士族たちの首魁
(しゅかい)であった。彼らを救済しなければならない立場にあった。
 彼らを救う方法――。

 それは、彼らに働き場を与えることだった。戦うことしかできない士族たちに、戦争をさせてやることだった。不幸にも朝鮮は、その標的とされたのである。

 西郷は遣韓大使に内定された。明治六年(1873)八月のことである。
 太政大臣・三条実美は、今すぐでも行きたがっている西郷に言った。
「あなたは留守政府の筆頭参議だ。派遣は遣外使節が帰ってからだ」

征韓論争当時の閣僚
(〜1873.10/25)
官 職 氏 名 出身
太政大臣 三条実美 京都
右大臣 岩倉具視 京都
参 議 西郷隆盛 鹿児島
参 議 後藤象二郎 高知
参 議 板垣退助 高知
参 議 木戸孝允 山口
参 議 江藤新平 佐賀
参 議 大隈重信 佐賀
参 議 大木喬任 佐賀
参 議 大久保利通 鹿児島
参 議 副島種臣 佐賀
 ※ 赤字は征韓論争で辞職。

 九月、岩倉具視大久保利通遣外使節が帰ってきた。
 そして、右大臣に復帰した岩倉参議になった大久保らは、西郷らの征韓論を知って反発した。
「今は朝鮮など攻めているときではない!」
「何より内政改革が先決だ!」
 西郷は言い返した。
「でも、このことはもう、内定していることでごわす」
 西郷は勝ち誇ったように三条の顔を見た。
 でも、三条は苦肉の策を使った。
「ああ、頭が痛い! 頭痛も痛い! まろ、病気! 会議、終了!」

 十月、三条の発病により、岩倉が太政大臣を代行した。
「えー、では、改めて遣使中止の件について、穏やかに話し合おうではないか」
「こんなの、ありか!」
 西郷は怒って参議の辞表を提出した。
 翌日、遣使中止の上諭が下ると、板垣江藤後藤らも辞表を提出、いっせいに参議を辞任した。
 いわゆる「明治六年の政変」である。
 こうして西郷朝鮮出兵計画も頓挫
(とんざ)したのである。

 明治十年(1877)、西郷西南戦争を起こし、敗死して破滅した。
 これ以前、江藤もまた、佐賀の乱を起こして敗死している。
 朝鮮出兵の言い出しっぺの板垣もまた、明治十五年(1882)に遊説中の岐阜で暴漢に刺され、
板垣死すとも自由は死せず!」
 と、名言を残して死を覚悟したが、命に関わるほど重傷ではなく、後に内相などを務めている。
 板垣が生きたということは、「自由」のほうが死んでしまったのであろうか?

*          *          *

 初代首相を務め、その後は元老として政界に君臨した伊藤博文(「攘夷味」参照)は、明治六年の政変では、大久保らとともに征韓論反対の立場だったが、東学党の乱を機に朝鮮に出兵、日清日露戦争を経て、韓国併合へこぎつけようとした。
 その彼にもまた、中国のハルビン駅
(黒竜江省哈爾賓。ハルピン)にて、韓国独立運動家・安重根(あんじゅうこん・アンジュングン)に射殺されるという破滅が待っていたのである。

[2002年9月末日執筆]
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