★ 写真! 本物? すでに平安時代に本格的写実画家がいた!
〜日本最初の画家・百済河成の驚愕の画才!!

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サッカーと蹴鞠
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 サッカーのワールドカップが近づいてきた。今回は日韓共同開催、アジアで最初の大会である。
 開催期間は平成十四年(2002)五月三十一日から六月三十日まで。開幕戦は韓国で、決勝戦は日本で行うという。

 サッカーの発祥地はイギリスである。
 十九世紀にフットボール協会が設立され、球技としてのサッカーが誕生したが、それ以前にも似たような遊び、ボールを蹴
(け)る競技は、イギリスほか世界各国で行われていた(中国のほうが古いという説もある)

 日本にも蹴鞠(けまり・しゅうきく)というものがあった。
 蹴鞠は、鹿革製の鞠
(まり)を地に落とさずに一定の高さに蹴り上げ続け、その回数を争う競技である。

 競技場は「懸(かかり)」と呼ばれ、三〜四間(約五・五〜七・三メートル)の広さ。
 四隅に「元木
(もとき)」といわれる一丈五尺(約四・五メートル)以下の柳・桜・松・楓(かえで)を植えて場外と区切った。「元木」の高さは鞠を蹴り上げる高さの基準である。
 プレイヤーは八人で、「懸」の中で鞠を蹴り合う。これを「鞠足
(まりあし)」という。「鞠足」のうち、上手な人を「名足(めいそく)」、下手な人を「非足(ひそく)」と呼んだ。
 また、外に出た鞠を中へ蹴返す補助者を「野伏
(のぶし)」、鞠足や鞠を監視する審判員を「見証(けんしょう)」といった。
 ユニフォームについては自由だが、室町時代以降、直衣狩衣で行うことが多くなった。
 シーズンも不定である。ただ、雨の日や風の強い日には行わなかった。日の長い夏は早くに始め、短い冬は遅くから始めたという。

 競技は「上鞠(あげまり)」から始められた。
 「上鞠」には上手な人が選ばれるので、とても名誉なこととされた。
 あとは「鞠足」たちが鞠の落下点を予測し、ちょこまかと動き回って蹴り続けるのである。

 鞠が地に落下すれば競技は終了だが、日暮れ近くになっても延々と競技が続いていた場合は、一同、涙を飲んで中断した。
 また、「鞠足」たちの調子が良過ぎていっこうに落下する気配がない場合も、故意に中断した。
 このことを「請鞠
(うけまり)」というが、めったにないことで、長い蹴鞠史上、たった二度しかなかったことという。

 蹴鞠の起源ははるかに古く、飛鳥時代にはすでに行われていたらしい。
 蹴鞠が縁で顔見知りになった中大兄皇子
(「ウソ味」参照)中臣鎌足(「工作味」参照)の逸話はよく知られている。

 平安時代に入ると、蹴鞠は宮廷でよく行われるようになり、貴族の間で一大ブームとなった。
 貴族たちは邸内に「鞠場」を設け、日々練習に明け暮れたという。
 「接待ゴルフ」ならぬ「接待蹴鞠」などもあったのかもしれない。

 宮廷辛口評論家・清少納言は、その随筆『枕草子』の中で次のように述べている。

遊戯というものはみっともないものだが、蹴鞠はおもしろい」(百七十七段)

 清少納言は「鞠足」の中に、ひいきの男でも見つけてしまったのであろうか?

 蹴鞠が広まるにつれ、信じられないほどのスゴ技を持つ「名足」が現れる。
 平安時代末期の蹴鞠の名手・大納言藤原成通
(ふじわらのなりみち)は、清水寺(きよみずでら。京都市東山区)に詣でた折り、有名な「清水の舞台」の欄干(らんかん)の上に飛び乗ると、端から端まで鞠を蹴り上げながら(リフティングしながら)何度も往復してみせたという。
 こんな芸当は現在のプロのサッカー選手でも曲芸師でもできないであろうが、我こそはと思う方は挑戦して欲しいものだ
(命綱はつけるんだよ)

 また、同時代の刑部卿・藤原頼輔(よりすけ)も、時の関白九条兼実に「無双達者」と賞賛されたほどの達人で、その孫に当たる飛鳥井雅経(あすかいまさつね)と難波宗長(なんばむねなが)は、それぞれ飛鳥井流・難波流なる「流派」まで打ち立ててしまった。
 ここに「蹴鞠道」なる「ジャパニーズ・サッカー」が確立されたわけである。

 このほかの「名足」としては、御子柴(みこしば)流の祖・藤原為家(ためいえ)、地下鞠(じげまり)の名手・賀茂成平(かものなりひら)承久の乱の敗者・後鳥羽天皇(「 将軍味」「栄光味」参照)、筆まめの帝・後伏見天皇(ごふしみてんのう)らがよく知られている。

 飛鳥井雅経と難波宗長は鎌倉に下向し、蹴鞠道の普及に努めた。
「おもしろいじゃないか」
 将軍執権を始め、多くの鎌倉武士たちが蹴鞠に熱中し、争うように両派に弟子入りした。
 ちなみに飛鳥井流には、鎌倉幕府二代将軍源頼家らが、難波流には、五代将軍・藤原頼嗣
(よりつぐ)、五代執権北条時頼らが入門した。

 室町江戸時代、難波流は衰退したが、飛鳥井流は綿々と受け継がれ、室町幕府六代将軍足利義教(「クジ味」参照)、八代将軍足利義政、香道御家(おいえ)流の祖・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)江戸幕府二代将軍徳川秀忠修学院離宮造営者・後水尾天皇など、幕府や朝廷の要人・貴人たちに蹴鞠を教え続けた。

 中には師匠顔負けの弟子もいた。駿河の元戦国大名・今川氏真(いまがわうじざね。義元の子。「銃器味」参照)は、武将としてはチャランポランだったが、蹴鞠に関しては並ぶ者なき達人だったと伝えられている。
戦争じゃなくて、蹴鞠で勝負しようぜ」
 武田信玄
(「撤退味」など参照)徳川家康(「惨敗味」など参照)にそう持ちかけていれば、彼は国を追われることもなかったであろうに。

 明治維新後、飛鳥井邸跡は白峰神宮(しらみねじんぐう。京都市上京区)になった。
 白峰神宮は、保元の乱の流刑者・崇徳天皇と、恵美押勝の乱の流刑者・淳仁天皇
(じゅんにんてんのう)を祭る神社だが、境内には鞠の神とされる精大明神(猿田彦神・さるたびこのかみ)も祭られ、近年はサッカーほか球技全般の神様として一部スポーツ界の人々の崇敬を集めている。

*               *               *

 一方、日本にサッカーが伝来したのは明治以降である。
 明治六年(1873)、イギリス海軍少佐ダグラスが日本の軍人たちにサッカーを教えたという記録が最初のものである。
 以後、現在までの「日本サッカー史」を略年表にすると、以下の通りになる。

日本サッカー史略年表

西暦 できごと
1896 東京高等師範学校(現在の筑波大学)フットボール部創設。
1918 中学生(現高校生)による日本最初のサッカー大会を大阪で開催。
1921 「日本蹴球協会」を設立(74日本サッカー協会=JFAに改組)。
「天皇杯全日本選手権大会」始まる。
1929 「国際サッカー連盟(FIFA)」に加盟。
1936 日本男子、ベルリン五輪に初参戦し、スウェーデン戦に初勝利(ベルリンの奇跡)。
1954 日本男子、W杯スイス大会初参戦し予選敗退。
1961 西ドイツ(現ドイツ)から名コーチ・クラマーを招聘。
1964 日本男子、東京五輪で七位。
1965 日本リーグ設立。
1966 「日本サッカーリーグ」設立(92ジャパン・フットボールリーグに99JFLに改組)。
1967 第一回アジアクラブ選手権開催(03AFCチャンピオンズリーグと改称)
1968 日本男子、メキシコ五輪で銅メダル。釜本邦茂(かまもとくにしげ)、得点王。
1977 奥寺康彦(おくでらやすひこ)、ドイツの1FCケルンに移籍(日本人プロ第一号)。日本フットサル連盟設立。
1979 「日本女子サッカー連盟」設立。
1987 古河電工、アジアクラブ選手権で日本チームとして初優勝。
1989 「女子サッカーリーグ」設立(94Lリーグに改組。04愛称「なでしこリーグ」)。
1992 アジア杯・広島大会で三浦知良(みうらかずよし)らの活躍で初優勝。
1993 日本リーグを日本初のプロリーグ「Jリーグ」に改組。年間チャンピオンはヴェルディ川崎。
日本男子、W杯・アメリカ大会最終予選敗退(ドーハの悲劇)
1994 三浦知良、セリエAのジェノアに一年間期限付で移籍。
1997 日本男子、W杯・フランス大会初の予選突破(98本戦初出場)
1998 中田英寿(なかたひでとし)、セリエAのペルージャに移籍して活躍(99ローマ移籍)。以後、欧州への日本人選手の移籍続出。
1999 アマチュアリーグ「日本フットボールリーグ(JFL)」設立。
2001 サッカーくじ「toto(スポーツ振興投票)」全国で発売開始。
2002 東アジアサッカー連盟設立。初代会長は岡野俊一郎(おかのしゅんいちろう)。
W杯・韓国日本大会開催。韓国四位。日本十六強。
2003 日本サッカーミュージアム開館。
2004 アジアカップ・中国大会で初連覇。
2006 JFAエリートプログラム開始。上川徹主審・広島禎数副審がW杯決勝トーナメント日本人初審判。
2008 日本女子(なでしこジャパン)、北京五輪で四強。
2010 日本男子、W杯・南アフリカ大会で十六強。
2011 日本女子、W杯ドイツ大会優勝。沢穂希(さわほまれ)、MVP・得点王。

 日本韓国のワールドカップ合同開催が決まったのは、平成八年(1996)のことである。
 両国の誘致合戦が熾烈
(しれつ)を極めたため、欧州サッカー連盟会長・ヨハンソンが共同開催を提案した。
「隣同士じゃないか」
 隣同士が仲がいいとは限らない。むしろ、悪いことが多い。国境があるかぎり紛争はなくならない。たたいた方はすぐに忘れるが、たたかれた方はずっと根に持っている。日本人は過去の歴史を無視しているわけではない。忘れたい人がいるのだ。夢だったことにしてしまいたい人がいるのだ。教えたくない人がいるのだ。しかしそれで解決できることではない。歴史はいつまでたっても閉ざされたままである
(「国境味」参照)

 日本韓国にも、仲がいい時代があった。
 現在の韓国西部にあった百済とは特に親密で、国境がないのも同然の交流が行われていた。仏教儒教漢字・医学・天文学・地理学などの学問や思想宗教は、みなこの国を経由して伝えられたのである。

 斉明天皇六年(660)、百済新羅の攻撃を受けて滅亡した。
 その際、祖国を失った多くの難民が日本に渡ってきた。
 その中には学者がいた。僧もいた。技術者もいた。作家や芸術家や音楽家もいた。様々な才能を持った文化人が日本に渡り、日本に溶け込み、日本文化界で活躍するようになったのである。

 日本絵画史にも、百済からの渡来人は大きな影響を与えている。
 と、いうより、日本で最初に名前が登場する画家が、百済人の子孫なのである。
 その名もズバリ、百済河成
(くだらのかわなり)といった。
 河成は役人としてはパッとしなかったが、絵画でもって後世にその名を残した。
 現在何人であろうが先祖が何人であろうが、そんなことは関係ない。文化に国籍はなく、芸術には紛争はない。
 あるのはただ、感動のみである。

[2002年4月末日執筆]
[2011年7月年表追記]

ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ

「百済河成」登場人物 

【百済河成】くだらのかわなり。日本最初の画家。百済人の子孫。

【 召 使 】河成の召使。
【 使用人 】
河成の知り合いの貴族の家の使用人。
【下男たち】

【 飛騨工 】ひだのたくみ。飛騨出身のスゴ腕大工。


ワールドカップ開催国・優勝国一覧

開催年 開催国 優勝国(優勝回)×準優勝国 予選参加数 観客動員数
1930 ウルグアイ ウルグアイ(1)×アルゼンチン 13チーム 434500人
1934 イタリア イタリア(1)×チェコスロバキア 32チーム 395000人
1938 フランス イタリア(2)×ハンガリー 36チーム 483000人
1950 ブラジル ウルグアイ(2)×ブラジル 32チーム 1337000人
1954 スイス 西ドイツ(1)×ハンガリー 37チーム 943000人
1958 スウェーデン ブラジル(1)×スウェーデン 53チーム 868000人
1962 チ リ ブラジル(2)×チェコスロバキア 52チーム 776000人
1966 イングランド イングランド(2)×西ドイツ 70チーム 1615000人
1970 メキシコ ブラジル(3)×イタリア 69チーム 1679000人
1974 西ドイツ 西ドイツ(2)×オランダ 98チーム 1774000人
1978 アルゼンチン アルゼンチン(1)×オランダ 99チーム 1610000人
1982 スペイン イタリア(3)×西ドイツ 108チーム 2064000人
1986 メキシコ アルゼンチン(1)×西ドイツ 119チーム 2442000人
1990 イタリア 西ドイツ(3)×アルゼンチン 112チーム 2515000人
1994 アメリカ ブラジル(4)×イタリア 144チーム 3567000人
1998 フランス フランス(1)×ブラジル 168チーム 2785000人
2002 韓国・日本 ブラジル(5)×ドイツ 195チーム 2705000人
2006 ドイツ イタリア(4)×フランス 194チーム 3370000人
2010 南アフリカ スペイン(1)×オランダ
2014 ブラジル

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