1.百済河成の出自

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サッカーと蹴鞠
1.百済河成の出自
2.百済河成の逸話
3.百済河成の仇敵
4.百済河成の失態
5.百済河成の逆襲

 百済河成が生まれたのは延暦元年(782)のこと。
 桓武天皇
(「怨念味」など参照)長岡京に遷都する二年前、四百年も続く平安時代がまさに始まらんとする時期である。
 生まれた場所も父母も明らかではない。分かっているのは百済人の子孫だということだけである。

百済河成 PROFILE
【生没年】 782-853
【別 名】 余 河成
【出 身】
【本 拠】 平安京(京都市)
【職 業】 官人・画家
【役 職】 左近衛舎人→美作権少目
→備中介→安芸介→播磨介
【位 階】 外従五位下→従五位下
【 父 】 ?(百済人の末裔)
【 母 】
【主 君】 嵯峨天皇・淳和天皇
・仁明天皇・文徳天皇
【墓 地】

 初め、姓を余(あぐり・よ)といった。百済姓に改めたのは、五十九歳のときである。
 余氏は百済では王族の流れをくむ高官の家系だったらしいが、日本での立場は低かった。ただ、亡国で身に付けた技能才能を生かし、経師
(きょうし。写経アルバイター)・校生(こうしょう。校正)・陰陽師(おんみょうじ。気象予報士・祈祷師。「安倍味」参照)などといった、ちょっとした専門事務職につくものが多かった。

 中には武人もいた。
 奈良時代の官人・百済足人
(たるひと)は、蝦夷平定に従軍し、雄勝城(おがちじょう。秋田県大仙市・美郷町)や桃生城(ものうじょう。宮城県石巻市)の築城に携わった。武人というより、建築技術に秀でていたようである。

 足人の系統だったのかは分からないが、河成は少年の頃から武芸に優れ、腕力があった。特に弓の腕前は天下一品だったという。
「弓の上手な少年がいるそうだ」
 そんなうわさが立ち、河成は左近衛舎人
(さこのえのとねり。天皇の護衛)に選ばれた。武官からのスタートである(「古代官制」参照)
 以後彼は、美作権少目
(ごんのしょうもく。県庁幹部)備中(すけ。副知事)安芸介・播磨介といった地方官を歴任、役人としては六十七歳で退官した。没年は七十二歳。当時としてはかなりの長命である。
 その間、五十二歳のときに外従五位下に昇っているが、これは武勇ではなく、屏風製作の際、絵筆を振るった画才を賞されてのものである。

 河成にとって不運なのは、彼の描いた絵が一作も現存しないということである(「伝河成作」はいくつか存在するが、確証のある作品はない)。このことはすなわち、現在彼の絵を見て感銘を受ける人がいないということだ。作品が残っていないのでは、評価の仕様がない。

 逆にいえば、そのことは彼にとって幸運でもあった。
「河成の絵はうまかった。現在いる画家たちのだれよりもうまかった」
 河成の絵を見たことがある古老がそう言えば、そういうことになってしまうのである。何しろ作品がないのだから、否定しようにも否定しようがない。
 こうして、河成の絵のうまさは伝説となった。

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